操り人形で見る人形の自由

 「人形」「人形のよう」という表現はときに、他者に操作されてるものや誰かの支配下にあるものに対して使われる。
それは人形の無抵抗な様子や、操り人形などの不自由なイメージからだろう。
だが、操り人形はむしろ自由な人形なのでは?
という話をしたい。

「操り人形などまさしく人の手で操作されていて、不自由の象徴的なものじゃないか」
そう思うかもしれない。いや、殆どの人がそう思うだろう。たしかに、操り人形はそういった不自由の代名詞として扱われることの多い概念だ。
じゃあなぜ操り人形が自由だというのか、順に話していこうと思う。

人形の性(さが)について

 私は「人間の想う偶像を宿す」という性(さが)があり「人間の理想を反映させる」という役割を持っていると考えている。
それに伴い、人形の自由や自我とはその役割において不都合な要素となる。
 大胆なことを言うと、人形とは不自由であるべきなのだ。

人形の自由とは

 どれだけ理想を映し出しても、それを映すスクリーンに色が着いていては理想通りとは到底言えない。
私はそんなスクリーンの色こそが人形の個性であり、人形の性(さが)から免れる、いわば自由だと捉えている。

 それを踏まえて操り人形というものを考えて欲しい。
操作という工程は理想を実像的に映し出す手段であると同時にスクリーンの色なのだ。
 例えば、操り人形によって理想を反映させようとすると、そこには複雑な技術が必要となってくる。そこには失敗や苦労が付き纏い、人形へのイメージ、偶像に影響がでてしまう。
それは人形の性(さが)「人間の想う偶像を宿す」ことに対する抵抗であり、操り人形を自由だと言う理由だ。


(余談)操り人形は操り人形

 そんな自由な操り人形に対しても人間は自身の思い描いた理想を求め、操ろうとすることを辞めない。
却ってそれは操り人形に宿った偶像を実像にせんと、人間が操られているという見方もできる。
果たしてその糸に縛られているのは人形か人間か…

(余談2)複雑な欲望

人間の理想とは欲望とは、一概に思い通りになることだけとは限らない。
ときには曖昧さや不確定さを求める。
そんな複雑で広大な欲望の中で操り人形は本当に性(さが)に抗えているのだろうか…

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