人形の卒業

人形は卒業するもの?

「人形を卒業した」という言葉を目にした。
大衆の中では人形は卒業するものという考えがあるようだ。
(偏った捉え方かもしれないが)
卒業という表現には、ある過程において特定の段階を終えること、生涯においての決別、そんな成長的かつ不可逆的な意味がある気がする。

今回はそんな卒業という表現の中の「成長の過程で通り過ぎる段階」という解釈において現れる人形の幼稚さと人形の卒業について話したい

人形は幼稚?

そもそも人形にそれを好きな人を未成熟だとするような幼稚さがあるのだろうか?

人形と定義できるものはとても多いが、例えば抱き人形やテーマパークの着ぐるみが好きだということを幼稚だと思われることにそこまで違和感はないだろう。
だが、それが展示物であったり、同じ着ぐるみでも映像作品で使われるものとなるの認識も変わるだろう。
そして、彫刻や宗教物においては幼稚というのは随分違和感があるように感じる。

その認識の変化が情報によるものか、リアリティにあるのか、扱われにあるのか…そもそも付随するもので認識が変化するなら、それは人形が幼稚かとは違う話ではないか?

そういった、人が何に幼稚さを感じるか、風潮などの扱われよる認知の変化については今後の課題として……
それらとは違う、人形全般に当てはまる人形の幼稚さについて私の考えを話したい

幼稚な愛

それは人形に向ける愛の形。(勿論それは向ける人によって当てはまらないが)人形に対する一方的で、顧みない、容赦のない愛の形。
人の愛というものは次第に相互的で、譲りあい、許しあう愛を育むようになっていく。(と感じている)人々はそれを成長と言い、それに従わず、留まって育み続ける純粋な愛だからこそ、そこには幼稚な一面が生まれると考えている。

ひとしきり考えを整理したので、結論を出そうと思う。

人形は卒業するべきなのか

そんな人形への愛、幼稚な愛を人は卒業するべきなのだろうか。
私はいつまでも育み続けていいと思う。
それはある種、自分本位で、本能的であり、暴力的とも言える。だからその扱いには注意は必要だが、切り捨てるのではなくそうやって持ち合わせるものの扱いを学んで正しく扱う方が成長と思う私は、そんな自分本位で本能的で暴力的であり純粋な愛を受け止めてくれる人形をいつまでも卒業せずに愛し育んていきたい。

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