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石川武志さん写真展「ムンバイ・ヒジュラ最終章」と、沖浦和光さん「旅芸人のいた風景」

根津のギャラリーバー「最終兵器」で9月16日まで開催されていた、写真家石川武志さん「ムンバイ・ヒジュラ最終章」を拝見した。

石川さんご本人の貴重なお話も、お伺いさせていただくことができた。
危険な目にあったり、工夫を凝らしながら、ヒジュラの人々への接近を試み、単に興味本位、物珍しさだけではなく、彼ら?彼女ら?との距離感を縮めて、普段の何気ない表情を捉えたステキな写真の数々であった。
今回は展示していなかったが、石川さんは書籍まで出版されており、20年以上にわたって「ヒジュラ」の現代のありのままの生活姿や、その歴史に踏み込んだ写真をインド各地で具にとらえ続けてきたご努力には、本当に敬服に価する。


インド文化における「ヒジュラ」

「ヒジュラ」(ヒンディー語:हिजड़ा Hijḍā [hidʒɽa:])とは、インド文化圏における、男性でも女性でもない「第三のジェンダー」文化である。
元来、ヒジュラたちはインド社会において、聖職として神事を執り行うなどの文化的な役割を持ち、集団で暮らし、仕事上のテリトリー持ち、独特のヒジュラ文化を形成していた。

しかしながら、イギリス植民地支配によるキリスト教文化の影響の中で、「ヒジュラ」は、その存在を法律で禁止され、不道徳な人たち、穢らわしい人たちと蔑まされて、本来の「神の使い」としての伝統的な仕事を失った。

今でも地方では、結婚や出産などにおける祝福儀礼により、僅かな門付を得て生活しているものもいるが、都市部においては、ヒジュラのほとんどが、売春などのセックスワーカーや物乞いとして、最底辺の生活を強いられている。

しかし、元々の「ヒジュラ」の役割を考えた時、古代インド文化における「性」の捉え方として、第三の性「ヒジュラ」を置いたことは、古代の人々が、人間の在り方を深く探求した上での、非常に理にかなっていると思う。

更に、その「第三の性」の受け皿に対して、単に身分制度の外、アウトカーストの者として差別され、蔑まされるだけではなく、きちんと「聖職者」としての役割を与えたことも、そこに、身分による軋轢をできる限り少なくして、古代社会を円滑に運営していくための、古代人の知恵が凝縮されているように思える。

西洋諸国が、植民地時代にキリスト教的な「男女」という二元論を押し付けておきながら、今更ながら、再び西洋発の「LGBT」だの「多様性」だのを、お題目のように唱え始めて、インドや日本などの東洋文明を「人権後進国」という扱いするのは、大いに疑問を感じる。

日本文化における被差別民と聖職のかかわり

ちょうど石川さんの写真展を拝見する前に、民俗学者である沖浦和光さんの著作「旅芸人のいた風景」を読んだ。

沖浦和光さんといえば、左派急先鋒の民俗学者としても有名だったが、この本では、沖浦さんの幼少時、摂津の街道筋で出会った旅芸人や行商の最後の記憶から、その後、釜ヶ崎に移り住んで、その歓楽街で活動していた芸人について、わかりやすく幅広く解説してくれる入門書になっていると思う。

さらに深く知りたい人には、日本の芸能と盛り場と「被差別民」の関係性と歴史について、仔細に、丹念に、文献に基づき紐解いている「『悪所』の民俗誌」という著書もあるので、そちらも読まれることを是非オススメいたします!

インドの社会にカースト制度が、今でも根深い問題として語られるように、日本においても、永年に渡った厳しい身分制度の歴史と、その「制度外」とされてきた人々、いわゆる「被差別民」「部落差別」とされる問題は、日本社会に今でも暗く、根強く残っている。

もちろん、この「部落差別」を含め、あらゆるマイノリティに対する「差別」の問題は、ボクら国民全員の自由が尊重される近代民主国家であるために、我々一人ひとりが解消に向けて不断の努力をしていかなければならない問題であることに間違いはない。

しかし、「差別を無くそう」という理念は断固として必要だが、お題目のような言葉だけでは何も解決しないのである。

いじめについての話で、このnoteでは何度も書いてきたが、

人間が社会的動物として生きる上で、同じ「仲間」を意識するのと同時に、差異を意識して、特に理解ができない者や、あらゆるマイノリティに対し、「他者」として排除しようとしてしまう意識は、本能的に持っているのだろうと思う。

改めて沖浦さんの著書を読んで、日本における身分制度の外に置かれた人々に対する「差別意識」は、江戸時代、近世以降に、民衆を支配する制度として当時の徳川幕府によって強化され、助長されたものなのである。

もちろん、それ以前も紛れもない身分制の封建社会であり、「差別される」対象としての「賤民」と呼ばれる人々は脈々と存在した。
しかしながら、江戸時代に「賤民」とされた人の中には、それ以前、室町、鎌倉、平安と遡ると、聖職、神職あるいは、巫女などに近い「芸人」としての役割を与えられていて、あからさまな「差別」の対象ではなかった人々も多く含まれるのである。
その中には、男装をして舞を踊る女性「白拍子」や、能楽のシテや、後の歌舞伎の女形に通じる男性など、現代のLGBTQとは少し違うかもしれないが、御幣を恐れず申し上げると、恐らくは、当時の性的マイノリティも包括するところがあったと思われる。

日本の身分制度について、これ以上書くと、長くなるので。
ボクの言葉では足りないところもあると思うので、疑問を感じた方は、是非とも沖浦和光さんの本も読んでほしい。

社会における性的マイノリティの重要な役割

古代のインドや、日本の近世以前の社会を無批判に誉めるのではない。
ただ、この、身分制度の外、言わば、大多数と異なるマイノリティに対して、社会の多数派から、単純に差別の対象とならないような、「聖職」「神職」という役割を与える、この「社会制度の仕組み」から見て取れる、「バッファ」というか「懐の深さ」というか、には、学ぶものがあるのではなかろうかと思うのだ。

支配する側に都合の良い身分制度、その後の極端な二元論的キリスト教文明による西洋化、全てを単に表面だけ覆い隠すような近代化を今こそ考え直さなければならない。

「差別を無くそう」というお題目のような言葉だけでは何も解決しないのである。
今になって盛んに言われている、LGBTQ、同性愛や性同一性障害などの性的マイノリティに対して、まだまだ「理解できない」と思う気持ちを今すぐに無くすことは難しいと思う。
2000年代頃、ほんの数十年前まで、「ホモ!気持ち悪い!」という言葉を、老若男女問わず、マスメディア含め、平気で発信していたのである。

先日2023年7月、「東京都現代美術館」において、「ドラァグクイーン・ストーリー・アワー〜ドラァグクイーンによるこどものための絵本読み聞かせ〜」が開催された。

SNS上では賛否両論が巻き起こり話題になったが、ボクとしては、自分が女装をすることも含めて、こういったイベントは非常に歓迎すべきものだと思っている。

今更ながら申し上げるが、L、G、B、T、Q、それぞれの立場は異なるし、「性的マイノリティ」を、ドラッグクイーンが代表するのもどうなのか?と思うところはある。
ただ、賛否両論、議論はあれど、何かしなければ前には進まないだろう、という思いがある。

自分も子を持つ親として、子供に目隠しをしたまま育てるのは無理だし、そうしたくは無いと思うのだ。
性的マイノリティの人々が、いろいろな形で感覚が純粋な子どもたちと交わって、「こういう生き方もあるんだ」と学んでいくことは、大切だと思う。

例えば、性的マイノリティの人たちが、保育園や学校とは異なる、子供たちの受け入れ施設、教育施設を運営するのはどうだろう?

うーん、男性保育士による性的虐待行為が問題になったこともあるし、今度は性的マイノリティを装ったロリコンやショタコンが、子どもたちを騙して性犯罪を行うことを心配しなければならないのか?
まぁ、現実的にジャニー氏のような、極悪な大犯罪者も生まれる日本だから・・・

いや、待てよ!
そんな心配の連鎖をしていてもしょうがない!!
犯罪に走る奴には、法律により厳正に対処するしかないではないか。

もっと将来の子供たちにとって、ステキな体験ができて、成長させてくれる、決して「立派」じゃなくていいし、「子供に教える」なんてことじゃない。
自分のありのままに生きることで、子どもたちに何かを伝えらえる、そんな大人がもっと増えてほしいと思うのだが。

ということで、今日はこの辺で。
読んでいただいたみなさま、ありがとうございます!


ムーニーカネトシは、写真を撮っています!
日々考えたことを元にして、「ムーニー劇場」という作品を制作しておりますので、ご興味ございましたらこちらをご覧ください!




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