見出し画像

2020年のアメリカにおけるBlack Lives Matterが私にもたらした変化(3)

この週末、私の住む街でおきた事件が、おそらく世界中の新聞に掲載された。

ジョージア州アトランタ市。

5月25日以降3週間目に入る抗議運動が今も続く中、またもや白人警官による黒人殺害が起こってしまった。このレイシャード・ブルックスという27歳の黒人男性は、営業中のウエンディーズというファストフード店のドライブスルーで、飲酒後に車を停めたまま眠りこけてしまっていたという。他の客はその車を避けてドライブスルーを利用していたそう。通報されて到着した警官に飲酒及び薬物使用の酩酊レベルをチェックするテストをされるが失格し、警官が持っていたテーザー銃(スタンガン)を奪って逃走しようとしたところを銃で撃たれる。

事件について聞いた人全てがまず思うことは「今、大問題になっていることなんじゃないの?」ではないだろうか。

ここで念のため書いておきたいのは、今行われている抗議活動Black Lives Matterは、ただ単に人種差別をやめようとか黒人の人権について考えよう、ということを言われているのではなく、極めて具体的に、「警官の黒人殺しを阻止しなければならない」というものである。この事件でなによりショッキングなのは、当の個々人の警官にとって、今全米、また世界各地で起こっている抗議活動は全く響いていなかったということ。

銃、あるいはテーザー銃を使用することはおそらく彼らにとって第3ステップ程度の行動なのではないだろうか。1)職務質問、2)車から出して手錠をかける、3)抵抗したら撃つ。このくらいの感覚なのではないだろうか。

でも待って、と言いたい。警官に罰を与える権利は本当はないのではないか。この2週間モヤモヤと考え、ある日思い立った。警官は犯罪に手を染めている者に対して、「捕まえる」という役割しかないのではないか?罪に対して罰を与えるのは裁判の場なのでは?

銃を持ち、犯罪者を捕らえる権利があるので、もっと大きな力があるという勘違いが産まれるのかもしれない。「自己防衛で攻撃せざるを得なかった」という話を聞くが、結局フロイド氏にしても今回のブルックス氏にしても、自己防衛ではなかったことがすぐに証明されている。偽$20札を仮に意図的に使ったとしても、飲酒運転したり、逮捕されるのに抵抗したり、テーザー銃を奪って逃走しようとしたりしても、殺されるまでに値することはなにひとつしていない。

実はこれが”over-policing”という言葉の具体例である。over-policingとは、オーバーリアクションと言ってもいいと思う。deadly-force---超強制的暴力的手段で対応すること。これを軽犯罪もしくはただの「疑いがある」というだけでもやってしまう。そしてそのほとんどは黒人に対して行われる。

暴力手段の他にも、レイシャルプロファイル(人種差別の偏見)で職務質問をするなどもover-policingという。

今、日曜日の深夜1:30。大騒ぎの週末が終わる。日本でこの報道があったかはわからないが、事件の次の日である土曜の夜、アトランタは怒りと悲しみに溢れた。事件のあったウエンディーズは、歯止めのきかなくなった抗議運動の集団により火をつけられ全焼した。主要高速道路であるinterstate75/85が交わるダウンタウン・コネクターでもデモンストレーションとして、抗議集団が交通を止めてしまった(こちらは短時間で元に戻ったようだが)。

最後に。3日前ブルックス氏が殺害されたウエンディーズまで、我が家から2マイル(3.2km)の場所。ニュースが流れてきたとき、一瞬うちの裏のウエンディーズか!?と冷や汗が出る。結局違ったのだが、かなり近距離でのできごとであった。

車で10分ほどしか離れていないにも関わらず、私の住んでいる辺りと、この事件があった界隈はかなり世界が違う。我が家の近所はかなり開けた場所で、カフェやレストラン、ライブハウス、雑貨店、洋服屋など様々なビジネスがあり、ヒップスターの集まるワークスペース的なコーヒーショップなど、なかなかエネルギーのあるエリアである。

ここからほんの少し南下すると風景はかなり違う。ハッキリと表現してしまえば、低所得の黒人が多く住む地域。そういう場所がいくつかアトランタのInterstate20を境に存在する。他のアメリカの都市でも同様である、このような地図になった理由はもちろん法律などもからんだ根深い人種差別。そのことも後述していきたいと思う。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?