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ネガティブ発言の何がわるい

筆者は日頃からネガティブ発言が絶えない。職業柄、公には発言できない内容ばかり。筆者が身を置く業界では、個人のレピュテーションが生き残れるかどうかを大きく左右する。Twitterなど誰がどこで見ているか分からないSNSなど、とても恐ろしくて軽々しくつぶやけない。元々、大学時代にアカウントを作ったきり触っていないのでTwitter事情には明るくないが、この業界で要注意人物指定される原因は大抵Twitterでの発言だ。それはどの業界、仕事にも共通しているかもしれないが。

こんなネット社会では、どんなに陰でものを言おうと、誰でも何でもどこでもリサーチできて明るみに出てしまう。陰で言わなくてはいけない内容というのは殆どがネガティブな内容である。そして、公に発言されるポジティブな内容よりも、ネガティブな内容の方が信頼性が高い。ネガティブな発言の方がその発言者の本来の人格を表すと思われがちだ。なぜなら人は偽善者を嫌うからだ。人は常に自分にとって信頼できる人間を探しており、「善い人」を求めている。ネガティブな発言をした瞬間、その人は「善い人」ではなくなり「噓つき」と糾弾される。しかし本来人間は多面性のある生き物ではないのか?ネガティブな一面があって然るべきではないのか?

「善い人」の反対は「悪い人」だ。前述の論理からするとネガティブな発言をした人は「悪い人」となる。しかし人格を決めつけるのは早計。人はいかようにも自分を変えることができる。実はみんなそうしてマインドコントロールし合って生きている。TPOに合わせて外見を変えるのと同じで、内面も一貫性があるとは限らない。人間は一貫性のない多面性を持ち合わせた非常に社会的な生き物だ。相手をする社会、コミュニティ、個人などに合わせて考え方も意見も使い分ける。誰かにとって「悪い人」は誰かにとって「善い人」となりうる。つまり、特定の帰属先の意向、意思、方針にそぐわない発言をすると「悪い人」になるのだ。

発言がネガティブかどうかを決めるのはその発言者の帰属先である。従ってポジティブな発言もネガティブな発言も等しく尊重されるべきだ。いずれもその人にとっては、社会を生き抜く上での真実なのだから。


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