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ジロウ閑話休憩…15

いったい何のために書くのか

 また、すっかり筆不精(キーボード不精)になっている。前回投稿してから三週間経とうとしている。無理に書かなければならないものでもないし、それを生業としているわけでもない。書くネタとして、思いつく度にメモを取り、次のテーマにして書いていて、そのメモもまだいくつかある。しかし、なかなか書く気が起こらないのである。
 野球選手などスポーツマンのイップスのような状態なのだろうか。書き始めたら、案外すらすらと書けるのだが、どうも気乗りがしない…。

なぜだろう?

 自問を繰り返し、整理してみるが、やはり小見出しの通り、「何のために書くのか」が、どうもはっきりしない。
 読んでくださる奇特な方がいるから、書いているのだが、それだけが執筆の理由ではない。自分が調べたこと、思っていることなどを言語化し、人にも読んでもらい、その感想や批判や、ご意見など反応があるから、また書くのである。
 主に天理教や宗教についてなどの記事が多いが、自分が天理教から、ちょっと距離を置き始めているようにも感じている。天理教は「最後(だめ)の教え」と教えられ、これが究極の教えであり、人々が陽気ぐらしできるための根本であるとも思ってきた。それはそれで自分の中で納得できるものである。しかし、「だから、何なの?」ともう一人の自分が言っているようにも感じるのである。

神のはたらき

 こんなことを書きながらも、最近、神の働きがあったのだと感じるような出来事はいくつも起こっている。神が人と人結びつけてくれたのだと思うような出来事や、注意を促すべく、災い的なことがあったり、神の仕業としか思えないような出来事も、私の身の回りで起こっている。無事に今、息をして、これを書いていることも、単なる自分の気まぐれではなく、神の御守護があってこそ、自由に書くこともできるのだとも思っている。ありがたいことであり、日々を感謝して通らねばならないとも思う。
 「最後(だめ)の教え」であるのなら、それを咀嚼(そしゃく)し、自分の生き方として心に修め、日々を通ればいいだけのことであり、宗教団体に属して、儀礼を行ったり、お金を出したり、行事に参加したりなどということは別次元の話のように感じている。

 読者の多くの方も同じような思いを持たれているのかもしれない。特に宗教二世、三世、四世の人は何の疑問も持たず、環境がすべて天理教だけに、すべてが当たり前という人も多いように思う。また信仰初代の人でも教会制度という組織の中でうんざりした人間関係などで離れたいと思いながらも、流されるまま暮らしている方もいらっしゃることだろう。
 いったい何が「信仰」するということなのかと再考すべき時が来ているのではないかとも思う。なぜなら、この3年のコロナ禍で、教会の活動にしろ、行事にしろ、考え直すべき事柄も多く、浮き彫りになったからでもある。
 一つの例として「直会」もやめた教会もけっこうあると聞く。悪しき習慣のように続けられてきたのを、コロナを機会にやめて、弁当なり、軽食にして昼間から酒を飲んで…というようなことも無くなってきたと思う。

どうして信仰を続けるのか

 天理教の「ようぼく」の人で、他の人から『どうして天理教を信仰しているのですか』と問われ、明確に即答できる人はどのくらいいるのかと思う。やはり、それは神との直接的な関係ではなく、人間とのつながりから来ているものが多いようにも思う。二世三世なら親からの、初代なら、にをいをかけた人からの、何かしら、人とのかかわりから、信仰について答えるのではないだろうか。
 直接、神と対話して神に導かれ、教えを受け、という人などは存在しないはずである。もし、いたら、それは天啓を受けた人ということになり、話はややこしくなる。
 結局、今の信仰は人間から人間へ伝わっている教えを自分なりに解釈して、自分のものにしているに過ぎない。それだけに「ごもくまじり」で純粋なものにはなっていないようにも感じる。だから自分で調べるのであり、研究する価値もあるのだと思う。信仰は学問ではないと言われるかもしれないが、真実を見極めたいと誰でも欲するのであり、そのために細かいことまで調べたり、隠されたり、曲解された部分がないかを納得いくまで研究するのである。それが自分の信仰であり、道を求めるということだとも思っている。

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