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掌編小説「めんつゆの海を泳いで」

 土曜日、遅めの朝食に素麺を茹でることにした。
 梅干しを一粒入れた鍋にたっぷりの水を沸かし、素麺を三束解いた。化粧木箱入りの上等なそれは、義姉からお中元に頂いた代物だ。
「起こしてもよかったのに」
 まだ眠たそうに欠伸をする千夜は、寝巻きのままでエプロンを締めている。
「いいよ。折角の休日なんだから」
 妻は意外と朝に弱い。昨夜は遅くまで韓国ドラマに夢中になっていたから、寝坊をしても仕方ない。
 僕はといえば、普段の平日と変わらずに目が覚めた。
 まずはリビングの窓を開けて、洗濯機を回す。その間にコーヒーを用意して、終了のメロディが鳴るまで読書をする。
 洗濯物を干し終えたら掃除だ。千夜を起こさないようにフローリングワイパーををかけて、浴室の汚れも落とした。
 流しにあった韓国焼酎の空きビンを袋にまとめていると、ようやく千夜が部屋から出てきた。 
「ごめん、私も手伝うわ」
 素麺に合わせるつけつゆは彼女に任せることにして、僕は鍋の準備に取りかかる。
 キッチン台に材料が並ぶ。市販のめんつゆを計量カップに注ぎながら、「夢を見たの」と、千夜がぽつりと言った。
「めんつゆの海を泳ぐ夢よ。温度は感じなかったけど心地よくて、底の方で昆布が揺れてたわ。鰹みたいな青魚も泳いでたっけ」
 トントンシャキシャキと白ねぎを小口切りにする音や、練りごまの香ばしさを感じながら、沸騰した鍋に素麺を入れて軽くほぐす。
「宗一郎さんも出てきたの」
 白波のような中で、素麺が踊るように揺れている。僕は顔を上げた。
「わたしがそのまま飛び込もうとしたら、ウェットスーツとゴーグルを渡してくれてね……」
「それから?」
「何も言わずにどっか行っちゃった」千夜はクスクスと笑った。
「でも、あなたのおかげで楽しかった。ありがとう」
 そう言って食器を並べる肩越しに、「こちらこそ」と、呟いた。
 夢の中でも自分が不器用なのは容易に想像できた。
 人はそう簡単には変わらない。それでも彼女の嬉しそうな姿を見れたのだから、終わり良ければすべて良しとはよく言ったものだ。
 揺らいだレースのカーテンから眩しい光が差し込んで、僕の脳裏にひとつの映像が浮かんだ。
 いつか千夜を誘って海に行こう。茶色いめんつゆの海ではなくて、青く透き通った海を二人で見たい願望が芽生えた。
 今年の夏は始まったばかりだ。

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