祖父のいない処暑
ミンミン、ジジジ、と競うように騒いでいた蝉の大合唱はもう聞こえなくて、もう少し声の高い、控えめな鳴き声が聞こえた。秋の虫だろうかと日陰で電車を待ちながらぼんやり考えた。
祖父が亡くなった。享年89歳。救急車で運ばれた翌々日、病院で息を引き取った。
自宅で転倒してから満足に歩けなくなり、腰の骨が折れていた(!)から
入院することになったものの、最終的に在宅介護をすることになった。
祖母が「自宅で看取りたい」と言っていたと両親から聞いたのが、たしか去年末だったと思う。
実家の両親と弟は東京、私は関西、祖父母たちは福岡の田舎に住んでいる。気軽に会いに行ける距離ではない。
祖父母たちが家の中で何かあった時に気付けるように、数年前から田舎と実家をビデオカメラで繋いで、お互いの映像を見たり音声でやり取りができるようにしていた(諸々の準備は父親がやった。実際、祖母が外出中に祖父が転びかけたことがあるから役に立っている)。
正確な時期は覚えてないけれど、今年の2月に実家に帰省した時には、祖父の介護用ベッドが置かれた部屋のカメラも追加されていた。
お盆休みに入る前の週、実家から連絡が来た。
元々肺がんだった祖父の痰はひどく、食事が摂れなくなってしまった。点滴を打ちにきた看護師から「もって今月までだから、早めに会わせてあげてください」と言われたそうだ。
平日の午後だった。帰りの電車で聴いた音楽も耳に入らなかった。
祖父の運転する車で図書館に行った夏休みや、居間で熱い緑茶を飲んだ冬休み……そんな他愛のない思い出を振り返りながら、マスクの下で唇を噛み締めた。
高齢の祖母の手伝いのために定期的に田舎に行っていた母親からも、祖父の近況は聞かされていた。
帰省する選択肢がなかったと言えば嘘になる。それでも、みるみる衰えてしまった祖父の姿を、現実を受け入れられなかった。
私が最後に言葉を交わせたのは、家族で帰省した去年の10月だった。
帰り際、「次に会うのはじいちゃんの葬式かな」と言われた時には少し痩せていたものの、まだ自分の足で元気に歩いていた。
「やだなぁ、そんな予定でもあるの?」と返すのが精一杯だった。笑えない冗談だった。93歳で亡くなった曽祖母のように、もっと長生きすると思っていたから。
退院後に何度か電話をかけたけれど、喋るのが苦しくて出れなかったと後で祖母から聞かされた。
田舎に着いたのは納棺後だった。仏間に置かれた棺桶の中で眠る祖父はまるで別人のようで、ふっくらとしていた頬はどこにもなかった。
後から来たおじさんたちが「兄貴、兄貴」と棺桶に縋る姿を見て、居た堪れなくて席を立った。
今でもまだ実感はない。心の中は思ったよりも静かだった。いや、向き合うのを止めてしまったのかもしれない。気丈に振る舞わないと自分を保てなかった。
通夜や葬儀までのエピソードはあるけれど、良くも悪くも文字に残せない。きっと祖父も呆れて笑ってしまうだろう。
あんなに沢山あった書籍のほとんどは生前に寄付してしまったそうで、本棚の隅に残っていた一冊をもらった。二巻しかなかったから本屋に寄って一巻を買ったのは、祖父が好きだった司馬遼太郎の『功名が辻』だ。
いつだったか祖母に言われたことがある。祖父は口数が多い方ではなかったけれど、他の孫たちの中でも私とはよく喋っていたらしい。読書家同士、波長が合っていたのかもしれない、と。
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