ダンスホール
安いダンスホールは、たくさんの人だかり。
軽く踊って汗を流すと、男はカウンターへ向かった。暗がりに飽和したライトの明かり。セロファン越しの光は赤く青く、ミラーボールはいかれたように回り続けている。
タバコと香水の入り交じったにおい。なによりも噎せ返るぎゅうぎゅう詰めの汗のにおいから逃れるように、男はスツールに腰を下ろした。
指を一本立てる。マスターがうなずき、ウイスキーのロックをカウンターに置く。
グラスの氷はちょいと流氷を拝借したようにいびつで、はみ出していて、傾いていて、完璧だった。男はグラスのかく冷たい汗に見とれた。
カウンターを背もたれに、踊り明かす人々を眺める。彼らはいつ眠り、いつ働いているのだろう。現実と夢の狭間で、つかの間のダンスを楽しむ彼らは、ガラス細工のリアルを着飾っていた。
ひときわ目を惹くわけでもない少女に、男は視線を送った。ウイスキーを舐め、目が合うと旧友に挨拶するように片手をあげた。
少女は子猫のように目を細めると、ひらひらと赤い爪の手を振り、見知らぬ男の手を取った。見知らぬ男と見知らぬ女のしゃれたステップを見守る。ちらりと向けられた流し目は、勝ち誇ったようにも見えた。勝った? なにに? きっと勝ち負けはない。ここでは誰もが勝者で、そして敗者なのだから。
なまいきな奴。子猫のようだった少女は、小粋なドラ猫のようにしたたかな女の顔をしていた。どっちが仮面なのかわかりゃしない。
飲み干したロックのおかわりを注文する。マスターに向けて立てた人差し指の横に、赤い爪の細い人差し指が並んだ。
「お兄さんと同じものを。水割りで」
隣に腰掛けた女の声は、想像していたよりかすれていた。ウェーブのかかったロングヘアーは、きしむような茶色に脱色し切れていない黒が交じっていた。安物の香水のにおい。
目が合い、少し離れ気味の吊り目を細める。小鼻はつんと低く上を向き、唇は爪と同じ色をしていた。幼さを隠しきれない化粧がいかにもアンバランスで、男は微笑んだ。悪くない。
カウンターに置かれたウイスキーのロックと水割り。少女は大きく開いた胸元に、冷たいグラスに負けず劣らず汗をかいていた。男は礼儀として、気のないそぶりを装いながら、寄せて上げて作り上げた浅い谷間にちらと目をやった。
いたずらっぽく笑い、女が水割りを飲み干す。踊り疲れて喉が渇いていたのだろう。女は軽くむせて、くしゃくしゃになったピアニッシモの箱から一本抜き出して火をつけた。慣れた手つきだった。
「いくつ?」
「レディに最初にする質問がそれ?」
横顔で、ひけらかすように咥えタバコをつんと天井に向けたまま、少女が肩をすくめた。
「いくつに見える?」
「十五か十六に見えるけど、実際のところは十八か九で、君が答えるのは二十一ってとこかな」
女は指に挟んだタバコを灰皿の上で弾き、長くため息をつくように煙を吐いた。
水割りのおかわりがカウンターに置かれる。女は無言でタバコを吸い続けている。男は指を一本立て、マスターが三杯目のウィスキーを用意している間にグラスを空けた。
少女の水割りは放置されたままカウンターを濡らし"Shall We Dance?"を待ちわびている。
「乾杯しよう」
「なにに?」
訊ねながらも女はグラスを持ち上げた。男は三杯目のグラスの氷を鳴らし、眉を上げた。
「理由なんてなんでもいいさ。どうせみんな適当な理由をつけて乾杯している」
「嫌よ、理由のない乾杯なんて」
「じゃあ、君の瞳に」
女が眉をひそめる。
「二人の出会いに」
女がやれやれと首を振った。
「ガラス細工のリアルに」
「いいよ。ガラス細工のリアルに」
カチンとグラスをぶつける音が、ダンスホールの喧噪に吸い込まれる。
女の滑らかな喉が上下するのを眺めた。もう汗はかいていないが、細い髪が何本か首筋に張り付いたままだった。その肌から指でつまんで一本ずつ剥がしてやりたい。男はウイスキーをあおった。乾きは満たされなかったが、いい気分だった。
女は両手でグラスを支え、考え込んでいた。灰皿に置いたままのピアニッシモがくすぶっている。まるで雨に打たれた捨て猫のように、なにかを待ちわびていた。そのなにかが自分ではないことを男は自覚していたし、それを特に残念にも思わなかった。
やがて女はぽつぽつと語り始めた。
グレて、長いスカートを引きずっていた学生時代の思い出を、遠い昔話のように笑い飛ばす。ボロアパートで埃をかぶったギターと、暴力を振るういかれた彼との同棲生活を、これも遠い過去のように話した。
「お兄さんの言うとおり。理由なんて些細なことね。なにもかもなにかのせいにすれば簡単だけど、でも本当は、これがあたいの性分。きっとセンコーがバカじゃなくても、彼がクズじゃなくても、あたいはここで同じように踊ってた」
四杯目のグラスには手をつけず、女はなにも眺めず遠い目をしたまま、紫煙をくゆらせていた。少し酔っているのか、つり目が若干垂れ下がっている。化粧のされていない首だけが赤い。
「学校はやめたわ」
女がふっと煙を吐き出す。
「いまは働いているわ」
女はいま、なにを見ているのだろう。視線の先をたどっても、男にはカウンターの奥に並ぶ酒瓶と、流れる陽気な色の光と、ミラーボールに引き延ばされた若者たちの影しか見えなかった。
あくせくと働く毎日。死ぬために生きるような暮らし。踊り疲れて眠る夜。
目を覚ますと知らない場所にいて、知らない男が隣にいて、いくらかお小遣いをもらって、夜になるとまたダンスホールに来て踊り明かす。
「少し酔ったみたいね。しゃべり過ぎてしまったわ」
女は笑みを浮かべようとして、ため息をつき、目を伏せてささやいた。
「けど、金がすべてじゃないなんて、きれいには言えないわ」
そして笑った。ふっとほころんだ顔は少女のようで、子猫のようで、男は少し躊躇ったが、優しさを取り繕い微笑み返した。
酔い潰れた女がしなだれかかってくる。香水と汗のにおいが鼻をつく。
華奢な腕を肩にかけ、もつれたステップを踏む孤独なダンサーの寂しい影を見下ろしながら、男は迷子の子猫を探すように、飽和した夜のネオンの中をさまよい歩いた。
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