孤独な洋服コレクター

私は15年ほど服を買い続けている。アメリカの1930年〜1970年代の衣料が主だ。当人は集めている気は無いのだけれど周りを見渡してみても私以上に執着がある人は多くない。あの人は何をしている人ですか?友人が聞かれたら、彼はヴィンテージ衣料のコレクターだ、と答えるだろう。

頑なに自分では認めたくないのだけれど、私はヴィンテージ古着のコレクターに間違い無くカテゴライズされる。

今回は物に執着する人間の心模様にスポットをあてながら私のような服コレクターがどのように誕生するかを探っていく。

服好きの多くは最初は格好良くなりたいとか、モテたいとか外向きの魅力を得るために服を買い始める。

あの人はお洒落だね、服が好きなんだね、と周りから評価されることでその楽しみを膨らませていく。

その楽しさにハマっていくと、服を触る時間が増えていく。学校にいても、仕事をしていても、服のことが頭から離れなくなる。休日には服屋を渡り歩き、吟味に吟味を繰り返し、買ったり、買わなかったり…

自分の買った服が、着ている服が、周りからの評価に影響を与えていることに気付くと熱中度は増していく。

自分が良いと思う物を買う→周りが反応する、という工程を繰り返すと、今度は自分が買った物が周りにどう影響するかを考え出す。どんな物を買うべきか、をより深く考えることになるのだ。物質への執着はドンドン高まっていく。

格好よく見られたいからお洒落するといった外向きの目的は、俺は今何を買うべきかという問題にすり替わり、より納得出来るものを入手するべきだ、と目的の矢印は知らぬ間に内側に向き始める。

内向きの目的、固執は、深くなるとドス黒いオーラを放つ。気付けば、他人を寄せ付けにくい環境を作る。

終いにはあいつは変だ、変わっている、と言われはじめる。そうなったころには自分を奮い立たせる原因であった周りを、自分の世界観に理解が無い、と判断し拒絶するようになる。

承認欲求は裏返ると厄介、俺は人の理解を求めない、と謎のストイックさに変貌し、物探求の深みにハマる。

孤独なコレクターの誕生だ。


孤独なコレクターはどこに向かうのか?次回【物収集を登山に例えて考える】で記していく。

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