あの世の身体 この世の生命/柳田純一

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読了日 2021/02/21

字が大きくて読みやすかった。
あと著者は書の達人でもあるらしく、中表紙に載っているのだけれど、小学生のときからお手本を写していた私には理解が出来ないので本当にごめんなさい。

法医学者として30年以上、生命について見てきた著者が、各月においてもっとも心に残った出来事を日記より抜粋したもの。
というわけで、1月の時点でご子息ご令嬢が大人であっても、3月あたりでまだ産まれていない、という時系列ガン無視状態ではある。
しかし日記というだけあって、出来事と向き合った当初の著者の気持ちがそのまま記載されている点については新鮮だった。
反面、分かりやすさと日記重視のために専門知識についての記述が少なかったのはざんねだった。

とはいえ、こういうことを当時は相談に乗ってくれたりしたのかという驚きがあった。
不登校になったある少女の祖母が、親子鑑定をしてくれないかと病院に相談した。
今でこそ親子鑑定は民間企業が請け負うことがあるが、当時は最先端技術といえば大学(病院)と思って相談に出向いたという。

なぜ少女が不登校になり、そこに親子鑑定が絡むのか。
少女は学校で、親子の遺伝について習った。
そこにはA型B型の両親からO型は産まれない、とあり、O型の少女は自分は父の子ではないと思いこんで不登校になってしまったという。

ガチもんの不登校引きこもり経験者が見るに、それはただ学校に行きたくないだけの言い訳なんじゃなかろうかという気もしないでもないのだが。

著者はこの相談、というよりこういう教え方にとんでもない間違いだ! とおどろいた。
不登校にさせた犯人は教員だと、教員にしてみればいい迷惑だが優しい著者は少女も祖母も決して責めない。

そして、A型の父親、B型の母親からはABO血液型のいずれの子も産まれてくる可能性があるとていねいに教えてあげた。

この子は中学生だったという。
中学生でメンデルの法則を習ったがどうか私は記憶に怪しいが、あの理屈を一度覚えるとたしかにA型B型からはO型は産まれないなと思ってしまうのも無理はない。
わが家はさいわいにもB型とO型で、残念かつ悲しいことに兄弟そろってB型の血を引き、しかもが絶望的なまでにB型の親に似ているので親子鑑定はするまでもない。
だが世の中、わりとこうして「本当に親子なのか?」「この子は自分の子なのか?」と考える人は少なくないようだ。

実際著者もこの章の終わりに小学生のわが子を見ながら、この子たちは自分の子なのだろうかとしみじみ感じているようだ。
わが子と確信していても、男性としては精子を提供しただけでは、果たして自分の精子が活用されたかどうか実感することが難しいのだろう。
せっかく乳首を持っているのだから、自分の遺伝子を継いだ赤ん坊が産まれたら乳を出すくらい進化してみれば疑いは晴れるんじゃなかろうか、人類。

幼子といえば虐待とは切っても切り離せないが、乳幼児突然死症候群なんてものもある。
死亡原因がどうやっても解明できない幼子の死はこれにひっくるめられるのだが、反面、きちんと解明するための施設(それこそ監察医務院)のようなところがないと、虐待死も突然死で終わらされる可能性がある。

著者は講演のために予定よりはやく講演会の建物に到着したが、役所の人間は開館時刻にならない限り決して著者に応対しようとしなかった。
わずか五分、と思うだろう。
だが著者はその五分でも子どもは事故に遭うし、気づかず放っておけば死ぬ可能性があるのだと、講演会のあいさつで話す。
このとき著者に対応した役所の人間は男性だったので、もしもこの男性はわが子に異変があっても五分くらいは放っておくのかもしれないなと思わされた。
そしてきっと、死んでも自分のせいではないと考えるのだろう。仮に事故死や病死だとしても、自分が目を離さなければと考えることはないだろうな。
著者いわく、この役所の人間は課長で、なるほど課長とはこういう人間だからなれるのかと納得していた。

この講演会のあと、著者は鑑定書を書かなければと考える。
先日行った、1歳女児の司法解剖、つまり犯罪に関する遺体だ。
実母による虐待で、壁に投げられて頭蓋骨骨折と損傷で亡くなったというのだからやるせない。
体には小さな打撲傷やタバコの火を押しつけられた痕があったというのだから、見るほうもきつかっただろう。
被虐待児症候群、バタードチャイルドシンドロームというのだそうだ。
余人の想像を遥かに超えるアホな私はなんで「バター」? と思って、つづりを英和辞書で検索した。
Butterではない。
Batteredだった。
BatteredつまりBatterは、物を乱暴に扱うとか、虐待するという意味だった。
そのままだった。
無知な自分を恥じ入り、しっかりメモを取った。

無知な自分は知ればきっと成長の芽を出すと信じているし、未熟ならば熟すまで成長すればいいと、無知と未熟が笑われる世間には嫌気が差すのだが、頭のいい人でも勘違いというか、知らずに育った人もいる。

ある検事は、心臓を一突きされて亡くなった人間の解剖に疑問を抱いた。
右脇から刺された傷が13センチの深さがあったが、この長さで心臓に達するのか、という疑問。
著者は検事が参考にした警察官が、3センチか23センチと書き間違えたのかな、と思っていたようだが、そういうわけでもない。
むしろ検事のほうが、傷は23センチの間違いではないかと訴える。
なぜか?
13センチでは、右脇から入った刃物が左胸の下にある心臓まで届かないのではないか、と。
著者は合点がいった。
そして検事に教える。
「心臓はここにありますよ」と、胸の真ん中に手を置いて。
検事はうろたえた。幼少時よりずっと、心臓とは左胸の真下にあるものだと思っていたから、右脇から13センチの長さの刃物では心臓に到達しないのではないかと。

検事らしいまわりくどい尋ね方のせいで話はこんがらがる寸前だったが、自分の勘違いを素直に認められるだけ、この検事はきっといい検事としてやっていけたのではと思う。

検視解剖以外での法医学者の身の回りを知れるいい本だった。
あと、著者は何かと美人に目を奪われ過ぎな気がするので、どうかご存命ならば奥様を大切にしてあげてほしい。

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