見出し画像

日記:10/12 美術館に行こう!

それなりの体調の良さ。
最近は各方面への省エネを意識して全然ご飯を食べておらず、昨日はおそらくそれが原因で体調が悪かった。

そろそろちゃんと食べるか…♠と思い、夕飯は王将で豪勢に済ませた。
結果として案の定体調が良くなったので、やはり栄養状態の充実は大切だなと思った。


○○○

昨日記事を書いた。
芸術絵画が写実画から抽象画へ変遷した歴史と、それが結構身の回りにも波及しているよ、という内容だ。気合を入れて書いたのでぜひ読んでみて下さい。

これらの内容は、大体美術館の企画展とかに行って学んだ知識を中心にして書いている。
美術館で芸術を鑑賞するというのは、すごく勉強になる。

以前は、美術館といったら、なんかデートで行く無難な施設みたいな印象だったが、何度か行くうちに全然そんな用途の施設じゃないな、と気付いた。
美術館、ひいては文化施設はやはりひとりで行くのが良い。楽しみ方がわかってくれば非常に強度の高い趣味になりうる。

"美術館で"芸術作品を鑑賞するメリットは、主に以下の通りだ。

・音声案内がある
”本物の”絵画が見れる

音声案内は非常に、非常に非常に有意義だ。
大抵企画展の作品は、キャプションが付いていて、まあ作品の背景とかがざっくりと書いてあるが、キャプションというのは文字数がかなり限定的で、本当にかいつまんだ情報しか書いてない。しかもキャプションが無い作品も多々ある。これはコスト面や観客の流動性を考慮してのことで、仕方ないことだ。

一方で音声案内は、ほとんどの場合、より踏み込んだ内容を説明してくれるので鑑賞した際のインプット量がとても充実する。
これまでいくつかの展覧会を通しての印象だと、文章のキャプションによる情報量が3だとすると、音声案内は8くらいのボリュームがある。

大体展示室の入り口付近で600円くらいで貸し出されていて、600円というのが観覧券2000円弱くらいに対して絶妙に多いので利用を渋る人が多いのではないかと思うのだが、600円分以上の価値は絶対にある。断言して良い。


本物の絵画というのも大事だ。
インターネットが発達した今日では、もう大概の作品は検索すれば見ることができる。
なんなら、ルーブル美術館などは所蔵している主要な絵画の高解像度画像データをすべて公開していて、誰でも見られるし、ダウンロードもできる。

それか画集もあったりするわけだが、しかし、それらで満足するのはやはり勿体無いと思う。

こんなことがあった。
先日、京都の京セラ美術館でルーブル美術館展が行われていた。観覧し、いくつかの作品がとても気に入ったので、帰ってからそのルーブル美術館ホームページにアクセスして当該作品の画像を閲覧した。
すると、なんか違うなという感じがした。

L'enlèvement de Déjanire par le centaure Nessus
英語表記だとロバート・プルッソのabduction of deianeira
上記リンクHPより

展示室で見た印象では、青々とした空と、ヴェールの鮮やかなピンクが対比になり、それはそれは美しかったのだが、この画像だとそういった対比は感じられない。空は寒空といった感じだし、ヴェールも薄ピンクという感じだ。寝転んでいるおじさん───誰だったか…川の神様だったような… の肌も官能的な艶やかさだったのだが、この画像では官能的な色合いには見えない。

この原因はいくつかあるのだが、画像や印刷物では本物の絵画そのものの色合いを100%再現できないというのが最大の要因であるといえる。
言い換えれば、展示室で鑑賞する絵画は、本来の着色の色合いに近いものを鑑賞できるということだ。

照明というものには「演色性」という概念があり、光の中に含まれる色の度合いによって、物の色合いの見え方が変化する。
例をあげるとすれば、蛍光灯で照度を取っている事務所に飾られている花よりも、公園で大空の下で咲いている花の方が鮮やかに見えることがわかりやすいだろうか。(太陽光は演色性100%だ)

京セラ美術館のように規模の大きい美術館で採用されている照明は、ほとんどが演色性が高い美術館用照明であるため、鮮やかな色彩で美しい絵画を鑑賞することが可能なのである。

HPで公開されているものは、スキャンに使用した機械の性能によって色の再現性が失われる可能性がある上、携帯の画面やモニターに表示する都合上、液晶の品質によっても彩度が失われてしまう。


それになによりも、実物を鑑賞すれば、解像度関係なく印刷物では表現できない筆のタッチを観察できるし、モニターの小さい画面よりも実寸大の絵画の方が迫力がある。

特に絵画という、一枚のキャンバス上で表現が完結する媒体ではそういった細かな情報が作品の芸術的奥行きを演出するのであり、液晶で鑑賞して満足するというのは勿体無いと思うのである。


○○○


にゃるらさんという方が作詞したinternet yameroという曲が海外のバーチャルYouTuberの人に英訳カバーされていた。
にゃるらのアカウントは、記憶にある限り7年前くらいから見ていて、言動のすべてを肯定している訳ではないが、はっきり言ってファンである。

にゃるらは3年前くらいまではTwitter面白アカウント以上の存在では無かった印象だが、ブログで自主的に記事を書いていて、そのうちねとらぼなどにライターとして寄稿するようになり、詩情が認められてあるゲームの脚本を担当すると、そのゲームが爆発的な人気を生んで一躍有名人になった。

そのゲームは所謂ノベルゲームで、会話の選択肢を選んでストーリーを進行していく形式であるのだが、にゃるら自身がノベルゲーム(主にエロゲだと思われる)の含蓄があり、またサブカルチャー文化への造詣が深いので本人の能力が遺憾なく発揮された形であり、傑作足りえたのだと思う。


internet yameroは、そのゲームのテーマ曲のひとつとして作られたもので、歌詞には彼が私淑している宮沢賢治を意識していると思われる箇所や、彼が好きな有名エロゲからの引用、にゃるら自身の過去のブログからの引用など沢山のにゃるら成分が散りばめられている。

彼が良い意味で有名になる以前の苦悩を見ていた身としては、彼の人生そのものと言って良いような詩がこうして素晴らしい曲に結実したのは自分事のように嬉しく、初めて聴いたときは衝撃を受けた。


それが、今やサブカルチャーの頂点と言っても良いVtuberのカバー元になったわけで、予想し得なかった展開だ。

にゃるらは元々幻覚剤や睡眠薬に傾倒していたり退廃的な生活をしている旨を発信していた時期があり、つまり巨大エンタメ資本であるVtuber(ホロライブ)からすればカバー≒コラボは炎上のリスクがあったものだと思われる。

嫉妬からなる彼のアンチも多いので、国内のVtuber(ホロライブ)がカバーしようものなら、かなりリスキーだったと思うが、今回はあくまで英語圏をメインに活動する配信者がカバーしたこと、「歌ってみた」ではなくカバーで独自色を出したことで実現にこぎ着けたのだと思う。

しかしながら、自身の書き溜めた詩が世間に認められ、違う文化圏の有名人に丁寧に翻訳され、その翻訳もバズろうものなら、その快感たるや、と思う。にゃるらさん、良かったね。


にゃるらさんと言えば、コラム記事と書評の腕が良く、これはおすすめである。私の蔵書も彼の紹介によって購入したものが多い。

そして、現在は削除され視聴不可能だが、過去にyoutubeでアップロードされていた「にゃるらちゃん放送局」が好きだった。彼は先天的に鼻腔が塞がっているためか、カードキャプターさくらの知世ちゃんの声真似が異常に上手く、美少女の3Dモデルを使用して知世ちゃんの声で喋っていた。

たしか第4回くらいで、世間的に有名になる前のひろゆきと対談していた回もあったはずだが、もう見れないので内容が思い出せないのがもどかしい。当時から「あなたの感想ですよね?」と言っていただろうか。少なくともひろゆきが揚げ足を取ろうとする喋り方だったことは覚えている。

非公開になった理由はわからないが、まあなんらかの形でまたやって欲しいものだ。そして「コミュニケーションタイム突入しました」もまた見たい。和姦厨がどうのこうのみたいなのは黒歴史としていて良いと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?