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「先生」の肩書をあえて捨てるということ

保育園で仕事をしていると、「 保育園の先生 」や「 園長先生 」といった風に「 先生 」として扱っていただくことが多いのですが、実はConoCoでは施設長ふくめ職員全員をあえて「先生」呼びしていません。
「 〇〇さん 」と一人ひとりの個人名で呼ぶようにしています。
たとえばわたしであれば「 まうみさん 」。
職員も子どもも、もちろん保護者の方々もみんなです。
これにはもちろん、理由があります。

先生イメージ

皆さんは「 先生 」と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか?
人それぞれだとは思うのですが、多くの人は「 なにかを教える人 」や「 指示を出したり、指導をおこなう人 」といったイメージを抱くのではないでしょうか。
「 先生 」という言葉の真に意味するところが実際どうであれ、こういった「 先生 」のイメージ認識はわたしたちが思うよりずっと早くから子どもたちのなかにも形成されているのです。


ある講演イベントで、出張託児をしたときのことです。
会場の一室をお借りして、ほんの1、2時間ではありますが子どもたちが自分でしたいあそびを選んですごせるようにと環境を整えていました。
気になるおもちゃであそびだしたり、親と離れる心細さから大人にひっついて離れなかったり、それぞれ思い思いにすごしだす子どもたち。
そこにやってきた、もちろんはじめましての1歳半をすぎて2歳手前の男の子。あまり物おじしない子のようで、興味津々で部屋中を見てまわったあと、わたしのもとにやってきてひとこと。

「 先生、これで遊んでもいい?」

彼が何でもないことのように言ったこのひとことに、わたしは雷に打たれたようにショックを受けました。

あとから保護者の方にも確認したのですが、その日、親から彼に「 先生だよ 」「 保育園と似たようなところだよ 」といった説明はしていなかったそうです。
ということは、彼は普段通っている保育園でもなんでもない場所で、エプロンや制服を着ているわけでも「 先生だよ 」と自己紹介したわけでもないただの大人のわたしを、おそらくその経験や知識から「 先生 」と判断したのでしょう。そしておもちゃであそぶ許可を求めてきたのです。

こんな仕事をしていてなんですが、あらためてわたしは、子どもってめちゃくちゃかしこいなと感嘆しました。
そして、こわいな、とも。


子どもたちは良くも悪くも自分が置かれた環境のもと、その世界の枠組みとでもいうべきものをものすごいスピードで認識し、自分の価値観を形づくっていくこと。

わたしたちが無意識に使っている言葉や価値基準が、そこに大きな影響を与えていること。

そして子どもたち自身ではどうしようもない、記憶にも残らないような段階からその影響があること。

そのことを、あらためて痛感させられたのです。


彼のなかでは、親を待つあいだすごことになるおもちゃがある空間にいる大人は「 先生 」で、そしてその「 先生 」はその場でなにかをするときに許可や指示を与える人なのでしょう。
なにかしたいとき、しなければいけないときは、その「 先生 」のところへいかなければいけないのでしょう。

わずか1、2歳でもこうした判断をくだせるほど、子どもたちは身のまわりのすべてを吸収して学んでいるのです。

だからこそ、子どもたちと一番身近に接する大人は心しておかなければいけないと思うのです。
子どもたちの主体性をうばう存在になってはいけないということを。

緑の中の母子

子どもたちの乳幼児期に保育園で育みたいことは、教科書に載っているような知識でも、なにかの計算の仕方や方程式でもありません。
そういったことを学ぶ前に必要であり、学ぶ上で欠かすことのできない、もっと土台となる部分です。
生きていく上で自分の核となる大切なことです。

自分が愛されて、この世に歓迎され、大切にされる存在であること。
自分と同じように、人もほかの命も大切な存在であること。
自分は世界に主体的にかかわっていける力をもっていること。
自ら探索し、自ら試行錯誤して、たくさんのことにチャレンジできる権利や機会やその力があること。

保育園は、自分で自分の人生を力強くしなやかに生きていくための、その礎を築くための場所なのです。

手つなぎ

「 先生 」という権威で、そのいっとき、子どもを思うように動かすことは簡単です。
なぜなら子どもはとてもかしこいから。
大人にとって便利で効率的で都合の良い枠組みを、ちゃんと汲み取ってくれるから。

ですが、先ほども述べたようにそれは保育園で育みたいことの本位ではありません。( 実際的な知識や手段を教わるべきときに、しかるべき「 先生 」とは出会うことになるはずです。)

保育園という場で「 先生 」という肩書を使わずに、ひとりの対等な人間として子どもに向き合いながら、その主体性をうばわずに人としての礎を築けるように導くことは、とても難しいことです。
教えることの方が、自分で気付かせる・自分で努力してできるようになったと思わせることよりも、ずっと簡単だからです。

ですからあえてこの肩書を捨てることで、わたしたちは日々、保育者とは子どもたちになにかを教える存在ではなく、発達の黒子となって伴走する存在なのだということを意識し直しているのです。

「 先生 」呼びをしないことは、保育者自身が自然と子どもたちに道を示す指針となるような存在であることを目指すという姿勢のあらわれでもあるのです。


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