見出し画像

自分の中の矛盾を、認めたり、愛したり、許したりすること。


「自分の中に矛盾があっても、人は正しくいようとしていい」




①自分ってなんだろう


 あたいのエッセイをまだ読んだことがない人のために言っておくと、あたいは老け専のゲイだ。老け専とは「老けている人専門」の略語で、厳密な定義は無いけれど、ゲイ業界ではおじさんやお爺さんくらいの年齢に惹かれる人をそう指している。

 老け専は、世間的に少数派であるゲイセクシュアル当事者の中でもさらにマイノリティな部類で、しかも付け加えておくと、あたいの場合はさらにニッチだ。


 老け専ゲイの中で主流な「男らしい系(パパ系やガテン系)」であったり「GMPD(ガチムチポチャデブといった大きな体型の総称)」といったジャンルに惹かれるのではなく、いいなと感じるのは「普通体型のノンケっぽい文化系おじさん」だったり「動物のようなチャーミングな顔作りをした中高年の海外俳優」であったりと、輪をかけて共感を得づらい好みの傾向をあたいは持っている。

 なのでゲイ業界において、他の誰かとタイプが重なって盛り上がるなんてことも滅多にない。そのことを「競争相手が少なくていいね」と言われることもあるけれど、どれだけ競争率が高くてもあたいはいつだってオンリーワンなので……。


 それに、ニッチな趣味をしていることをあたいは気にしてない。


 たかが愛の指向なんてものが他人から共感を得られなくても人は孤独じゃないし、同じような感性の人間がいたとしても仲間意識を持ってつるむ必要もない。大体「好きになるものが一緒」それだけで人と人とが絶対に仲良くなれるわけでもないしな。

 だから、あたいは自分がユニークな好みを持っていることに対して、後ろめたさや寂しさなど持ってない。あるいは他人と違う自分に優越感があったりもしない。淡々と我が道を行くだけ。あたいも、お前も。

 

 そんな風に芯を貫いているように見えるあたいだけれど、実際のところ、自分でも自分に対していやらしさを感じることがある。

 もちろんすけべって意味じゃない。すけべなのは間違いないけれど、あたいが感じるいやらしさというのは自己嫌悪のことだ。


 なぜ自己嫌悪を感じるのかと言うと、自分の感性や趣味嗜好ってのものが、あるいは生き様に根差した「変えられない指向」ってものが、冷静に解剖してみると実はがんこな偏見であったり、出どころを振り返ってみると、幼少期に満ち足りなかったものやトラウマ、あるいは特定の誰かによって変えられてしまった傾向、言い換えれば“愛憎や歪みや傷跡“なのかもしれないーー と、自分でも考えてしまう時があったりするからだ。

 大体そんなことを考えてしまうのは、風呂に入るのすらダルいくらいの夜だ。風呂にすら入れない精神状況の時に考えつくことなんてほとんどロクでもない。この前は人生無理すぎてAmazonで彫刻用の粘土3kgも買っちったしな。

 ただこの際、自己嫌悪に陥るのは、自分の芯が歪められてできたものだからではなく、自分の芯をそうやって全部外の世界にあるモノのせいだと感じてしまう、自分の弱さにだ。




 たとえば、これはあたいが子どもの時分からずっと考えてきたことだけれど、あたいは母子家庭育ちで、なおかつ母ちゃんが苦手だった。そのせいで自宅とはとにかく居心地が悪い空間だった。だから、幼い頃から母子家庭育ちのあたいにとってほぼ記憶がない父ちゃんでも、自殺せずに生きてくれていれば、“父親として家計と家庭の安定”を与えてくれたんじゃないのかーーと想像し、切望することがあった。

 今ではそんな“たられば論“が無駄だと分かっていても、子どもの頃は真剣に悩める命題だった。そして、いくら経験や思慮の足りない子どもの頃であっても、感じたものは決して無くならない。それがあたいを形作る根幹になっていても何らおかしくはない。

 思春期の頃には、定年も近い年齢の既婚者男性に初恋をした。通っていた中学校の教師だった。

 その際にはすでに自分の自己形成について、もしかするとあたいは「父親を望んだ」結果、「父親くらいの年齢の男性を好むゲイ」に“後天的に成った“んじゃないか? あるいは“思春期特有の性欲“と“父性への羨望“が混濁しているのではないか? とすら考えてしまったものだった。

 そう考えるということは、自分の中のアイデンティティや確固たる自分らしさというものが、人生の些細なきっかけや、どうしようもない与えられた環境や、ボタンのかけ違いなどで形成された、偶然の産物であると疑うってことだ。

 また、それは大人になった今でも尾を引いていて、もしかすると大人であっても人間性の一部や個性というものは、ただ環境や経験で形成された後天的なものなんだと否定できないのでは? と、考えてしまうことがある。

 恋愛や性愛はトラウマや渇望の反動であり、趣味は若い頃に我慢したものであり、人間関係は自分のコンプレックスの裏返しでありーー「結局人は一生、自分に無いものや、自分の傷を埋めるためだけに振り回されるのでないのか」と。

 そんなことを人は二日ほど風呂に入らなければ考えてしまうのだ。



②自分が得たモノは自分のもの

ここから先は

5,298字

ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄