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言葉の音、音の言葉 宮沢賢治のオノマトペ

「イーハトーヴ」というプロジェクト

思索の秋。私は宮沢賢治に夢中になっている。童話、詩、散文、書簡。賢治の残した文章にはたくさんの形があり、鉱物、天体、植物、動物、修羅や菩薩など作品の中に登場するモチーフは、私たちそれぞれの関心とどこか結びつく。そんな中で、私自身が彼に惹かれるポイントを振り返ってみた。するとやっぱり、一番は「イーハトーヴ」という場所を生み出したことだと思う。

賢治は、その生涯のほとんどの時を故郷・岩手で過ごした。そして、その土地を「イーハトーヴ」と呼び替えた。イーハトーヴを舞台に「銀河鉄道の夜」「注文の多い料理店」「やまなし」など、私たちに馴染み深い童話の数々を書き綴ったのだ。しかし、賢治は作品の中にイーハトーヴを登場させただけではない。むしろ、彼の目的は、現実の岩手をイーハトーヴに変え、その美しく不可思議な風景の中で人生を送ることだった。「イーハトーヴ」は単なる物語内の設定ではなく、実際の生活を変容させるプロジェクトだったと言えるだろう。

「退屈」の向こう側へ

ところで、哲学を研究していた学生時代からの私の大きな課題は、「退屈」とどう向き合うか、ということだ。どうすれば深いレベルで物事を「楽しむ」ことができるのか? これは、哲学者の國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』(新潮社)で追求されていた問題でもある。仕事や勉強に忙しく取り組んでいたり、エンターテイメントを消費したりしていても、心のどこかで退屈を追い払えないことがある。その時は楽しくても、あとには虚しさが残る。そういう時間がある。とはいえ、生きている実感に満たされ、世界の豊かさを深く楽しめるような瞬間もないわけではない。深いレベルで楽しめる時と、そうでない時。何がその違いを生むのだろうか。

その答えに近づいていくにつれて心惹かれるようになったのが、賢治の「イーハトーヴ」だった。世界を深く楽しむには、世界の見方、世界への接し方を工夫する必要がある。そう考えた私は、賢治が「言葉」を使って故郷の景色を一変させてみせた、その方法に手がかりがあると思った。つまり、どうすれば目の前の現実を、新しい仕方で体験できるのか? 代わり映えがしないように見える日常を、どうすればみずみずしいものとして再発見できるのか? その方法を、思想家としての宮沢賢治に見出したのである。

最近書いたエッセイも、現実を変容させる方法を探るためのものだ。旅先で訪れた花巻市・北上川で、指輪の宝石を覗きこんで「イギリス海岸」を発見したこと。賢治の手紙の宛先の住所をたどって、渋谷の道玄坂にイーハトーヴへの通路が浮かび上がったこと。こうした出来事は、偶然、私の世界の中に賢治が生きた世界を映し出した。

そんな魔法のような時を、自分自身の力で引き寄せることはできないだろうか? もっと積極的に、イーハトーヴのようなきらめく現実を再発見し、生活を深い次元で楽しむことはできないか? そこで、ある実験的なワークショップのアイディアが思い浮かんだ。

宮沢賢治のオノマトペ

それは、「オノマトペだけでコミュニケーションを行う」というワークショップである。オノマトペとは、擬声語・擬音語・擬態語の総称だ。擬声語は「ワンワン」のような生物の声を表す言葉。擬音語は「バンバン」のような無生物の音を表す言葉。擬態語は「ぐらぐら」のような状態を表す言葉。

賢治の文学の特徴として、よく独創的なオノマトペが挙げられる。『宮沢賢治のオノマトペ集』(ちくま文庫)のように、彼の独特なオノマトペだけをコレクションした本もあるほどだ。

クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。

「やまなし」

草も花もみんなからだをゆすったりかゞめたりきらきら宝石の露をはらひギギンザン、リン、ギギンと起きあがりました。

「十力の金剛石」

一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこどってこと、変な楽隊をやってゐました。

「どんぐりと山猫」

よそでは見たことも聞いたこともない、奇妙なオノマトペばかり。それでいて、なんとなくイメージが伝わってくるから不思議な感じがする。

おそらく、賢治の目新しいオノマトペは、彼の豊かな感受性で捉えたものを、そのまま言語化しようとするところから生まれている。普段、私たちが使っている日本語というリミッターにとらわれることなく、辞書に載っているオノマトペの枠に収まらない表現が残されている。

「イーハトーヴ」という言葉が彼の童話の世界の額縁だとしたら、オノマトペはその中に風景を描くための色とりどりの絵具だ。

言葉の音、音の言葉

もし、いつも話している言葉を一度封印してみたら? 慣れ親しんだ言葉を捨てて、感覚の中から浮かび上がるオノマトペだけで何かを表現したとしたら? 私たちは、賢治のように、初めて言葉を発する赤ちゃんの状態をもう一度体験することができるのではないだろうか。標準的な日本語というリミッターを外して、感受性と表現力を解放できるかもしれない。

この発想のもと、下北沢の古本カフェ・バー 気流舎で「言葉の音、音の言葉」と名付けたワークショップを行った。

このワークショップの参加者たちは、出題者1名、表現者1名、回答者たちという三つの役に分かれる。出題者は、オノマトペで表現するワードを設定する。表現者は、制限時間内にオノマトペだけを使ってそれを表現する。その他の参加者たちは回答者になり、表現者の発したオノマトペで何が表現されているのかを当てる。

例えば、私が出題者になったときは、「マツタケ」「しいたけ」「マッシュルーム」のうち、表現者がどれかをこっそり選んで表現するというお題を出した。表現者は「ぐつぐつ、ぷにぷに、ぐにぐに」といったオノマトペを捻り出した。参加者たちの回答は、「しいたけ」と「マッシュルーム」に二分された。ある人は「ぐつぐつ」を煮物に入れた「しいたけ」を煮る音だというふうに考えた。別の人は、同じオノマトペをアヒージョに入れた「マッシュルーム」を煮る音だと考えた。正解は、「しいたけ」。料理をするシーンから食べるまでの流れを表現していたという。

もうひとつ例を出そう。お題のワードは「東京」。ヒントは一切なし。回答者は、選択肢などのない状態で、音だけを聞いて答えを想像する必要がある。表現者は、「ピカピカ、ビュンビュン、ガアガア、ドロドロ」といったオノマトペで「東京」の街を描写した。もしかして、正解は出ないのでは?と思ったけれど、意外にも、いきなり最初の回答者が「大都市みたいな感じ、東京」と答えた。他の参加者たちは、燃えているマグマのようなものを想定して「地球の誕生」と答えたり、発光しながら高速で移動する物体をイメージして「流れ星」と答えたりしていた。表現者によれば、東京の夜景、高速道路、地下水路、人間関係などのイメージを音で表したらしい。

同じオノマトペを聞いても、どんなものを思い浮かべるかは人によって大きく異なる。実は、その人の経験、ライフスタイル、物の認識の仕方などが複雑に絡み合ってイメージが生成されるためだ。一つ一つのオノマトペは、その人の生きている風景の氷山の一角なのかもしれない。

ワークショップ中、これまでほとんど聞いたことがないオノマトペも誕生した。例えば「タロットカード」を描写するオノマトペ、「ポワンポワン」。これは、カードから占いのメッセージが浮かび上がる様子をイメージしているという。

普段とは違う用法が生まれることもあった。例えば「トランプ」を描写するオノマトペ、「ジャラジャラ」。たいてい、「ジャラジャラ」は小石や小銭がたくさんぶつかって立てる音を表すが、これはトランプのいろんなマークや数字が散らばっているイメージだという。

出題者は、どんなお題を出したら盛り上がるか考える。表現者は、手探りでオノマトペを捻り出す。回答者たちは、戸惑いながら発語されるオノマトペに耳を傾け、自分の考えや気づきを語り出す。時にどっと笑いが広がり、時に皆が黙り込む。

まるでお正月のすごろく大会のように、皆が子どもに帰る時間だった。

皆が同じ音から同じイメージを感じる世界なら、こんなにワークショップが盛り上がることはなかったはずだ。夜空の星々が実はそれぞれ別の色や形をしているように、日本語話者同士でも、私たちの使う言葉には個性がある。けれど、いつもは標準化されたコミュニケーションをとっているため、この言語感覚の多様性は見えにくくなっている。ところが、オノマトペをだけで何かを表現すると、それぞれの人の世界に対する手触りが現れる。だから、このワークショップでは、私たちの言語感覚のユニークさが浮き彫りになったのだ。

「トキーオ」の出現

岩手を「イーハトーヴ」と呼び換えたように、賢治は東京を「トキーオ」と呼び換えた。このふたつの土地は、夢と現実が重なる世界の中では地続きにある。ワークショップが始まった時、下北沢の気流舎は「東京」ではなく、「トキーオ」のカフェに変わっていた。

「トキーオ」を出現させるコツは、決まりきった見方というリミッターを外し、すでに知り尽くしていると思い込んでいるものと、新しく出会い直すことである。初めての遭遇では、それを何と呼べばいいのかすぐにはわからない。つまり、未知との出会いは、私たちを言葉の始まりへ、言葉が生まれる地点へと連れていく。

かつて、誰しも言葉を話し始めるまでには、並々ならぬ試行錯誤のプロセスを経験した。その過程には、新しい言葉への驚き、うまく伝えられないもどかしさ、うまく表現できた喜びのような、生き生きとした感情があった。しかし一度言語を習得してしまい話すことに慣れると、わかることにも伝わることにも無感動になってしまう。

わかること、伝わることの素晴らしさにもう一度驚くこと。わからないこと、伝わらないこと、すれ違うことの奥深さに驚くこと。

再び言葉が音になり、音が言葉になる場所で、世界は生まれたばかりの子どものような姿を現していた。


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