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電車で席を譲る時における私の思考のカラクリ

↑ここに書いた、電車に乗って座っている時に出くわす「席を譲るかどうするか」という場面。よくある場面で、昔の私の頭の中は、もっともっと忙しかったなー、自分がお留守だったなーと、しみじみしたので、今日はそのことを書いてみようと思う。

電車に乗って座っている時、後から高齢者の方が乗って来て座れなかった時の私の頭の中。

◎あ、席を立たなければならない(「立ちたい」じゃなくて、mustの「~なければならない」と頭は言っている)

↑これは、自分視点の「どうしたい」かではなくて。世間視点の「どうしなければならないか」。自分を見ずに世間を判断材料にしている(無意識で)

◎席を譲ったら、高齢者の方にどう思われるだろう。嫌な気分にさせてしまうのではないか。(喜ばれるという思いよりも、不快にさせてしまうのではと頭は言っている)

◎席を譲らなかったら、高齢者の方にどう思われるだろう。他のお客さんにどう思われるだろう。なんで席を譲らないのかって思われるんだろうな。(譲っても譲らなくても高齢者の方を不快にさせてしまうのではないかというネガティブワールドな思考。他人の視線を気にしすぎ。これを「自意識過剰」というのだろう)

◎席を譲ることで、高齢者の方に不快な思い、年寄りに見られたとプライドが傷つく、座りたくないと思っているのに余計なお世話と思われる・・・そんなマイナスに感じられるのではという不安ばかりが頭に浮かぶ。そして怒られたらどうしようとまで考え出す始末。

◎席を譲らなかったら、高齢者の方に不快な思い、年長者に譲らないなんて悪い奴と思われる、病気で身体がしんどいのに座れないと思われる・・・そんなマイナスに感じられるのではという不安ばかりが頭に浮かぶ

↑結局、席を譲っても譲らなくても不安ばかり(苦笑)。頭の中は高速回転で、これらの思考がグルグルと駆け巡りリフレインされる。(そりゃ疲れるよね)

振り返ってみると、この思考の中には「私」が存在していないのがわかる。私の頭の中には「高齢者の方の気持ち」「他の乗客の気持ち」「世間の気持ち」しか入っていない。それも、実際に気持ちを確認したわけではなくて、単なる私の想像にすぎないもの。そんな実際にある気持ちではないものに振り回され、不安になり、思考を使い果たして疲れる。

「私」の気持ちは、いったいどこに行ったのだ?私の気持ちより、他人の気持ちを優先していることがわかる。優先というより、他人の気持ちしか考えていない。それも想像で。。。(合っているか不明な勝手な妄想とも言える)

実際には、「電車に乗って席に座っているだけ」なのに、頭を使いすぎて気を遣いすぎて疲れ果てる。

そんなことが無意識の中で起こっていたんだと、気付いた時には驚愕した。

本当は、何も考えることはなくて。

「電車に高齢者が乗ってきて立っている。私は座っている」

ただそれだけの事実に、思考をくっつけて、ありもしない妄想をして不安になって物事を複雑にしている。

物事を複雑にしてこねくりまわすプロ(笑)

「自分」がいないと、こうも振り回され、不安になるのかと実感した。

「電車に高齢者が乗ってきて立っている。私は座っている」という事実があって、それに対して「相手」や「世間」「周り」のことに意識を向けるのではなく、

「自分」に意識を向ける。

「私は、どうしたいのか?」

席を譲りたいのか?譲りたくないのか?

たったそれだけのこと。とってもシンプル。

もし私が「席を譲りたくない(身体がしんどい)けれど、譲らなければならない」と思って譲ったら。

断られた時に、「わざわざ譲ってあげたのに」という怒りが湧く。(相手は譲って欲しいなんて頼んでないのに怒りを買う悲しさよ)

そして、他の乗客に対して「なぜあなた達は譲らないのか」という怒りが湧く。(被害妄想も甚だしい)

「○○して あげた のに」という「あげた」という行為ほど、相手に対して失礼なことはないと思うのに、自分が無理して行動すると思ってしまうんだ。犠牲が伴っているから。

私がただ、「譲りたい」という自分の希望を叶える為にした行動なら、相手が断っても受け入れても「どちらでも良い」。「座ってもらう」ことが目的ではなくて、「譲る」ことが目的だから。

それはとっても軽やかなエネルギー。「譲ってあげたのに」という思いがあると「私の親切の押し付け」になって、相手にとっては重いし負担。

そういうエネルギー交換はしたくない。

「こうあるべきだ」「この方がいい」だから、あなたは「受け取るべき」みたいなエネルギー交換になる

「私がしたいからやっているだけ」「受け取っても受け取らなくてもいいですよ」というエネルギーを渡して、相手も軽やかに「ありがとう~」とか「大丈夫です」というエネルギーの交換が出来たら嬉しい

自分の価値観を押し付けない、押し付け合わない

相手の価値観を認めつつ、価値観が違っても、ただ「違うんだな」とわかるだけでいい。どっちが正しいじゃなくて、どっちも正しくて、ただ違うというだけのこと。

電車の中の一コマの話だけど、これはどんな日常にも通じる話で、とっても奥が深い。

私の頭の中を他人で埋めないで。自分の気持ちで埋める。その上で、相手が喜ぶことで私が出来ることはあるかな?と考える私でいたいなとつくづく感じた一コマだった。

それにしても、自動操縦で勝手に思考が動き出すので、その思考を客観的にみられるようになってきた今は、その思考が面白いとも思えるようになってきた。成長の証だわ♡

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