破天荒になりたかった、そんな落とし穴
私は常々「破天荒になりたい」なんて思ってきました。
人が思いつかないようなデザインで作りたいし、人が真似できないような取り合わせをしてみたいし、人の意表を突きたい、そう思ってきました。
私はプリザーブドフラワーや白磁の絵付けをしているので、そのアイデアが出てこなくて悶々としているときに言い訳のように「破天荒になりたい」と思ってきたわけですが・・・
ずっと続けてきてそれは違うな、と今は思っています。
私は「破天荒」を「型破り」と同意義のように使っているのですが、気づいたこととはまさにこれです。
つまり……
「型破り」であるためには「型」が必要だ!!
私たちは知っているものや想像できるものしか表現できないのだと思います。
無知からは何も生まれない。
やっぱり勉強は必要で、その面倒くささや遠回りから逃げたい気持ちで「自由がいい」なんて思うのです。
勉強といっても資格を取るとかの話ではなくて、もしかしたら違うジャンルかもしれないし、もしかしたら基本は習うとかかもしれない、そこは人それぞれで扱う物事それぞれだと思います。
勉強するということはきっと視野を広げるということ。
視野を広げることで解決の道が増えるし、問題自体を解決しなくても何とかなる違う道が見えてくることもあるのです。
きっとこういう状態のことを「型を破った」と言っている、そんな気がしてきました。
私はその世界にどっぷりハマることを「身動きが取れなくなる、できる範囲が狭まる」と勘違いしていたことがありました。
その時の私は深く学ぶことをしていたんじゃなくて、実は他人が準備してくれた「カリキュラム」の中にいただけでした。
パッと見の華やかさ、他人の活躍や制作しているものに惹かれて「真似」しているだけでした。
学びの基本は真似だけど、私がしていたのは結果の「真似」。本質はおざなりでした。
で習えば習うほど窮屈に感じ始めて・・・
私にはアレンジ能力がないんだ、あ~破天荒になりたいと言い訳を始め・・・
次の何かに逃げていく・・・。
でもこうやっていっぱい「次の何か」に逃げたことで、今少し経験が増えてきてモノを見る角度が増えてきたのかな。
そう思います。
今なら、「もう少し長い目でいろいろ見ておきな!!」と自分に言います。
ついでに「次の何かに逃げるという選択は満更悪くはなかったぜ!!」も。
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