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文章が書けない話

このnoteのメインテーマである「かもノす」については、前回の記事でざっとご紹介しました。これからは個人的なアウトプットの場として、日々の思索も交えながら続けていくことにします。お付き合いいただければ幸いです。

ここのところ文章が書けなくて困っている。

もうすこし正確にいうと、こうして文章を綴ることはできるけど、どれだけ書いても納得感が得られない。この記事のまえに浮かんだネタは、どれも書き上げるまでのモチベーションが続かず行き詰まってしまった。

20代の前半はもっと気持ちよく書けていた気がするのになぜだろう?

そんなことを考えていたら、こんな記事をみかけた。

うん。わかる。けどなんか悔しい。

しかし、なんか悔しい指摘こそ図星だったりするのが世の常。ここに書かれているように、わたしはどこかで「理想の文章」にとらわれているのだろう。

理想のジェンガ、どこまで積むか。

たしかにこの数年で自分のなかの理想は高くなった。それは悪いことではない。それだけ内面が成長したということでもある。問題はそれに対して文章力の成長が追いついていないことだ。

理想の実現はジェンガを積むことに似ている。上手ならどこまでも積める。高く積めるならそのほうがいい。だけど無理をしたらすべて台無し。理想の名文も実力を見誤ったら迷文だ。ありゃりゃ、ジェンガテントウ虫♪である。

このnoteは自分の思索を気軽に共有したい、と思ってはじめた。

その目的をかなえるのは、固唾を吞むようなギネス級のジェンガだろうか。それは明らかにやりすぎだ。本気の大人ジェンガ。それも疲れそうだ。いっそ子供でも遊べるくらいやさしいジェンガ。それなら何も考えずに積めそう……。

そう、それでいいのだ。目指すべきは、最高の文章ではない。
いまのわたしが普通に書けて、ここであなたが普通に読める、最適な文章なのだ。

バランスこそはすべて。

高いジェンガでも、低いジェンガでも、バランスはおなじように大切だ。

書くという行為を分解すると、①書き手の視点という素材を、②独自の考察で調理して、③盛付けで意図を表現しながら、④読み手が解釈できる余白を残し提供する、というシェフのひと皿のようなバランスがみえてくる。

心の働きでみれば、①視点と②考察は内向き、③表現と④余白は外向き、という分けかたもできる。この2極のバランスが偏ると、自己中心的で読みにくい文章になったり、するする読めるけど内容がないよーな文章になったりする。

生まれてこのかた内向的なわたしの場合、①と②はスムーズだ。心の内側にはするすると潜っていける。つまり逆にいえば、今回のような「書けない」問題は、内向きの心に偏りすぎるために起きているということだ。読み手にとってふさわしい表現や読みやすい余白。それは内向きの心だけでは見極められない。

レッツ、コミュニケート。

外向きの心が必要なのはわかった。では何すればいいのか。
それは読み手とコミュニケーションすること、ではないかと思う。

コミュニケーションのむずかしさは、正解が自分と他者の間にあるということ。しかも文章だと、読んでもらうまで答えがわからない。それなのに間違っていたらすぐばれてしまう。それがコミュニケーション。むずかしい。

巷のテクニックは役立つかもしれない。しかし最終的に、わたしの書いた文章の正解を知る方法は、あなたに読んでもらう以外にない。だとしたら「実践あるのみ」としか言えない。失敗を恐れず書くしかない。

そうなのか。がんばります。

ひとつ書けた🙌

こうして、わたしの書けない話は「地に足をつけて地道に書こう」という、あたりまえの結論に落ち着いた。しかし今回の趣旨からすれば悪くない着地点ではないか。少なくとも、こうして記事をひとつ書き上げられたのは事実だ。

あなたにはちゃんと届くだろうか。

そんな思いを抱えながら、公開ボタンを押してみることにします。
お読みいただきありがとうございました。

やっぱりダジャレが身の丈かも…

補足
熱心な読者の方から「ジェンガテントウ虫♪ってなに?」という質問を頂いた(ウソです)ので補足する。これはハンバートハンバートというバンドの楽曲のもじりである。わかりづらくて失礼。ちなみに一度聴くと、次から本末転倒なことをやらかした時に自動的に脳内再生されるようになります。


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