コンパクトシティとまちなか居住_表紙

コンパクトシティとまちなか居住 _集合住宅は都市の主役に返り咲けるのか_

1.コンパクトシティとまちなか居住
 コンパクトシティについてはご存知の方も多いと思いますが、簡単にご説明します。人口縮小と高齢化が進む中で、地方都市では、インフラなどの公共サービスを効率化し行政コストを適正化すること、また、高齢者などの交通弱者が住みやすい街を作ることが課題とされます。それを解決する形の一つがコンパクトシティであり、コンパクトシティを実現させるために行政が行っているのが、コンパクトシティ政策です。私の住んでいる富山市はコンパクトシティ政策で有名ですが、具体的な施策として公共交通の充実、中心市街地の活性、まちなか居住の推進を行っています。今回はそのうち、まちなか居住について、生活者として、また建築設計者としての実感を書きたいと思います。
 行政によるまちなか居住の推進については、「居住の自由」への介入につながるのではないか、という議論もありますが、地方都市といえども中心市街地の地価は高く、従ってまちなか居住は割高であり、むしろ、まちなか居住を選択する自由がないのが実情だと思います。富山市の方針としては「規制強化ではなく誘導的手法が基本」(註1 としており、共同住宅の整備補助や家賃補助によって、中心部に住むための障壁を取り除き、居住を誘導する施策が取られています。補助金と言うと一様に眉をしかめる人もいますが、インフラ縮小を視野に入れれば、合理的だと私は思います。
 中心市街地の活性については官民様々な試みがあり、往年の商店街を取り戻す、といった発想とは違う形で、まちなかの魅力は着実に高まっていると思います。例えば、休日のお昼にローカルなハンバーガーショップで、高校生とおぼしき若い人達が特別なランチを楽しんでいるのを見ると、おでかけの場所としてのまちなかが機能しているのが感じられます。子育て世代としては、学生が居られるスペースも多く、車の運転をリタイヤしたお年寄りや、電車での出張が多いビジネスマンにとっては公共交通も便利なので、住む場所としても魅力的です。

2.まちなか居住が選ばれない理由
 では、なぜまちなか居住が選ばれないのでしょうか?まちなか居住の魅力やメリットは多くの住民に共有されていると思います。ただなんとなく、何も考えずに、郊外の戸建てが選択されている訳ではないのです。
 ビジネスマンならまちなかで職場の近くに住み、郊外への営業はシェアカーを利用すれば用が足りるでしょう。しかし、小さい子供が複数人いるとか、共働きの場合、自家用車が無いと実際の生活はかなり難しいのではないでしょうか。夫婦それぞれの職場と保育園が近くにある奇跡的な環境にあったとしても、天候に大きな影響を受けますし、歩行者のために作られていない街を幼子を何人もつれて歩くのは大変です。子供が大きくなればそれなりにプライベートなスペースも必要になりますし、今度は面積(それにかかる賃料)が必要になります。地方だと住宅の建設費は中央とそれ程の価格差が無い一方、地価は安いため、そのインセンティブを活かそうとすると、どうしても駐車場付きの郊外一戸建てが選ばれます。さらに、共働き家庭では郊外の親世代との近居を選択する人も多く、尚更まちなかに住む理由が無くなってしまいます。
 一方で、私の育った街は東北の人口15万人程度の街ですが、中心市街地の商店街に大規模な集合住宅が建設され、商店街のお惣菜売り場は一人暮らしのお年寄りで賑わっていると聞きます。特に雪国では、冬季の除雪作業や交通手段への不安が強く、高齢者世帯にとっては郊外一戸建てから中心市街地の集合住宅への住み替えは不可抗力であると言えます。しかし、私の両親は子供が手を離れてから、街中の集合住宅に住む必要を度々口にしながらも、なかなかそれは実現していません。母は趣味の畑が生きがいですし、父には定年後にやっとの思いで培った近所のコミュニティがあります。土のついた野菜を持ってシェアカーやエレベーターに乗るのも、男性高齢者が一から友達を作るのも、なかなかイメージが描けない現状があります。

3.集合住宅はまちの嫌われ者
 そんなデメリットを超えて、ポジティブなまちなか居住をするために、集合住宅にできることは沢山あると思います。「近代」が始まったころ、労働者のための集合住宅は、建築家にとって最も取り組むべき都市的・近代的課題でしたし、日本で歴史のある建築雑誌『新建築』では、今でも年に2回の集合住宅特集があり、紙面を開けば様々な試みが掲載されています。しかし、そこに溢れる先端的事例を実際の地方都市の街並と見比べた時、なんともがっかりした気持ちにならざるを得ません。地方の集合住宅は、大部分が大手デベロッパーやハウスメーカーによる画一的なものです。なぜこのような事態になってしまったのでしょうか?私は、その原因として、日本のまちが集合住宅を嫌ってきた経緯が大きいと思います。以下、集合住宅がまちに嫌われる3つの理由とその結果について述べたいと思います。
① 混ぜるな危険、集住と戸建て
 一番大きい要因として、集合住宅、特に賃貸生活者と一戸建て生活者では生活文化が違うことが挙げられます。賃貸生活者は数年の賃貸契約で流動的であり、単身者も多く、地域コミュニティに参加できる仕組みもありません。生活マナーの悪い人や、マナー自体を知らない人も多いです。また、日照の関係で紛争になることも多く、多くの自治体では、集合住宅に対して高さ制限やゴミ置場、駐輪場、駐車場の付置義務、最低住戸面積について細かく規定した条例を定めています。その結果、特に中小規模の集合住宅の1階は、駐輪場と駐車場とゴミ置場、さらには高さ制限で行き場の無くなった住戸を詰め込んだグランドレベルになりがちです。条例自体は、ストックとしての価値を担保するために重要なものではありますが、何かもう少しオプションを提案できると、集合住宅とまちの接点がもっと豊かになるのではないかと思っています。
②大きな、手づくり商品
 分譲集合住宅は商品として売り買いされるものですが、工場ではなく一つづつ現場で「手づくり」です。品質にバラつきが出やすくなりますし、土地の地盤状況によっても大きな影響を受けます。品質の管理をし易くしてクレームのリスクを減らすためには、商品のバリエーションはできるだけ少なくして標準化する必要があります。賃貸の場合も同様で、特に新築の場合は初期投資が大きいため、建物のライフサイクルを通して借り手がつくように、標準化する傾向があります。その結果、全国津々浦々、既製品を組み合わせて作った同じような表層の、同じようなプランの集合住宅が立ち並ぶことになります。
③ そもそも、期待されていない
 売り手だけではなく、分譲住宅の買い手にとっても、その集合住宅が20年、30年経った時の維持管理や、資産価値の減少のリスクがあります(註2。賃貸の借り手にとっては、②の事情もあり、貸し手と借り手のパワーバランスが曖昧な日本の賃貸文化があります。敷金・礼金に始まり、アスベストの有無が不明瞭だったり、耐震性能に不満があってもなかなか家賃交渉しにくいのが実情です。その結果、特に賃貸に関しては消費者側の期待値は低いものとなり、それに準じてクオリティの低いものが流通している現状があります。
 以上のような、まちに嫌われる原因を乗り越えて、建築雑誌で紹介されるような先端的な集合住宅は、多くが大都市近郊で事業計画に余裕のある「意識の高い」事業者が主宰するものです。その意識高い系集合住宅をコツコツ作り続けていれば、やがてそれはプロトタイプとなり、地方までやってくるのでしょうか?地方の建築家と居住者達は絵に描いた餅を眺めているような状況で本当に良いのでしょうか?私はこの状況を変えたいと思っています。そんなにリスクを冒さなくても、意識を高くしなくても、少しの工夫で街に受け入れられ、街を楽しむ拠点となる集合住宅を作ることはできると思います。

4.本当は都市生活の夢が詰まった集合住宅
 前半で述べたように、まちなか生活では利便性が得られる一方で犠牲にしなくてはならないものもあります。では、それらの犠牲とトレードできるような魅力ある都市生活の拠点となり、かつ地方都市でも実現可能な、むしろ地方都市にふさわしい、意識の高すぎない集合住宅とはどんな物でしょうか? 私が考えたポイントは3つです。
① 駐車場とランドスケープ
 前半でも述べましたが、地方都市で暮らすにあたって、どうしても自家用車が必要になる局面があります。いつか自家用車が無くなる時代が来るとしても、これ以上の公共交通の充実が難しい現状にあって、自動車社会と共存することは地方の建築の条件の一つだと思っています。そして、自動車のためのスペースは本来ダイナミックなものであり、そのスケール感には余裕があるため、自動車が不要になった時にも他の用途に転用可能なものだと思います。しかしながら、現状では、駐車場の付置義務を果たした中小規模の集合住宅は、建物を奥に寄せ、前面道路に面して大きな駐車場というパターンになってしまいます。この形式がずらりと並んでしまうと、もう歩けるまちではなくなってしまいます。その問題をうまく解決している事例が、岡崎にあるDragon Court Village(設計:Eureka)です。1階のオープンスペースで高い評価を受けているこの集合住宅ですが、私はむしろ駐車場計画がこの建物の肝だと思っています。駐車場を建物周囲に回し、周辺の一戸建て住宅から適度な距離を保ちながら、ランドスケープとして、駐車場をうまく分散しています。
② アンチコミュニティと匿名的窓辺
 私が暮らしているアパートの1階には、そこそこ良い感じのカフェがあるのですが、正直なところ利用したことがありません。パン屋さんとか薬屋さんなら使うと思うのですが、カフェに行きたい時はちょっと街を歩きたいなぁと思うからです。40万人都市の魅力は、月に数回しか行かないお店でも挨拶を交わす程度に認知してもらえ、会いたい人がいれば数人を介せば辿り着ける、村でも大都会でもない程よい距離感です。そんな距離感の街で、住む場所とコミュニティは重なっていなくて良いと思うのです。大都市圏では住人像を絞り、ライフスタイルの価値観を共有する人だけが集まるようなアプローチはあると思いますが、地方都市では必ずしも必要はないかな、と思います。
 東京原宿にあるコープオリンピア(設計:清水建設)は、前東京オリンピック時に建設され、ドラマ化された『東京タラレバ娘』の原作にも出演している建物ですが、ゴツゴツした外観は、都市の賑わいを演出するどころか、むしろ不愛想です。バルコニーはありませんし、グランドレベルの商店を巧妙に隠してさえいます。このまま地方に持っていったら似合わないかもしれませんが、都市と生活が対等に向き合っていて、アンテナを張りすぎていない古びれたこの建物の外観が、ヒントを与えてくれる気がしています。バルコニーの奥の掃き出し窓ではなく、窓からまちを眺めたり、花を飾ったり、小さな明かりを灯したり、そんな匿名的な参加のできる窓辺が、まちなかの集合住宅に必要なのではないかと思います。
③ 画一的でいいじゃない
 間取りに関して、工夫が凝らされているに越したことはありませんが、意識の高すぎない集合住宅として高望みはしません。むしろ普通の家財道具がうまく納まる画一的な間取りが賃貸居住者にとってはありがたくもあります。住居としてきちんと配慮された画一的な間取りは、お年寄りから、ルームシェアの若者まで、多様な居住者を呼び込むこともできるでしょう。住人の多様性は、都市の魅力でもあります。ただ、同じような住戸が、エレベーターを介して画一的に並んでしまっては、多様性も生まれないと思います。せめて住戸のレイアウトだけでも工夫して欲しい。できれば低層中規模で、1階庭付きの住戸もあり、屋上もある、というのが望ましいかなあと思います。
 
 以上、地方住民として、建築設計者として、まちなか居住の頼れるパートナーとして地方の集合住宅に復活して欲しいという思いから、できるだけリアルな視点でまちなか居住と地方の集合住宅について語ってきました。少し抽象的な話になるのですが、本当は、そもそも集合住宅を商品として考えるのをやめることができれば、もう少し地方の集合住宅は自由になるのではないかと思います。性能に対する対価としての価格や賃料、という考え方を取り外せば、古いビルをコンバージョンして住むことも受け入れやすくなります。また、分譲と賃貸が曖昧なものもあって良いと思います。長く住み愛され、街のランドマークにもなっていた同潤会アパートでは、新築当初には賃貸として貸し出され、後に分譲された例が多くあります(註3。そういった集合住宅では自由と規律が程よい管理体制が実現していたそうですが、例えば最初は賃貸として住んで、気に入ったら購入する。そして購入する時に賃料として支払った分は何かしら優遇される、という仕組みがあれば、賃貸に抵抗がある人も選択し易いと思いますし、事業者としても対価を得るルートが増えます。また、住人が建設組合を作って建築するコーポラティブハウスは、丁寧に開発された小規模集合住宅を作り出すのに有効ですが、大都市圏だけの文化になっています。この方式も、分譲と賃貸を織り交ぜて意識の高い小口の事業者が集まれるようにすれば、地方でもできるのではないかと思いますが、だんだんと夢物語になってしまうので、このあたりで終わりたいと思います。地方都市については、今後も続編を書いていきたいと思います。ここまで読んで頂きありがとうございました。

参考文献
註1>富山市(2008)『富山市都市マスタープラン』富山市
註2>野澤千絵(2016)『老いる家 崩れる街』講談社現代新書
註3>植田実(2004)『集合住宅物語』みすず書房


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