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沙希がしあわせになるには

こんにちは。
先日、文学サークルで平野啓一郎さんの『決壊』読書会を開催しました。
まず、読書会に向けて作品を読み、次に読書会で参加者の感想とともに振り返り、最後、読書会後に読み直しました。
全部で3回読んだのですが、最終的にいちばん印象に残ったのは沙希でした。崇にとってオンリーワンの女ではないことを分かっているのに、崇から離れられない。その姿は昔の自分を見ているようでした。

『決壊』について

『決壊』は2008年に出版された平野啓一郎さんの8つ目の作品で、分人主義の原点となった小説だったそう。最近の作品『本心』や『ある男』ほど分人主義が明確に語られていないので、「あ~ここから分人主義ができていくのだなあ」と作家の思考が深まっていく様子も感じられてファンにはたまりません。

ニヒリズムの極限から現代人の孤独を見つめ、「個人」として生の絶望を描いた衝撃作。凄惨なバラバラ殺人事件によって「決壊」した世界。逮捕されたのは、被害者の兄で、〝誰からも愛される〟エリート公務員の沢野崇だった。――00年代の実存の危機を、一切の妥協なく追究した本作は、知の無力化、自爆テロ、メディアによる暴力の拡散など、この後の世界の姿を驚くべき精度で先取りしている。崩壊する家族と「個人」を仮借なく描いた衝撃的な結末は、激しい賛否を巻き起こした。

平野啓一郎公式サイト

『決壊』の沙希について

『決壊』を3度読んで浮かんだ疑問は、「沙希は崇と一緒にいるときの自分が好きなのだろうか」でした。
沙希が崇にあてて送ったメールからは、二人の「相手への想い」が決して対等ではないことが分かります。

実家に帰省中かな?
世間はお盆休みだというのに、仕事でどーしても納得できないことがあって、上司い嚙みついちゃったよ。クビになったら、図書館司書の資格でも取ろうかな(笑)
今、帰りの電車の中なんだけど、向かいに座ってる家族のささやかだけど幸せそうな笑顔を見てたら、些細なことで悩んでいるのがバカバカしくなってきた。
明日もう一度、話し合ってみます。ゴメンね、グチこぼしちゃった(>_<)

『決壊』平野啓一郎

上司との愚痴報告メールをなぜ崇に送るのか。理由は、崇からはめったにメールが来ないから。自分から会話のきっかけを作らなくては、崇との関係が消えてしまうような気がするから。崇が反応してくれそうなきっかけを、沙希は毎日探している。さらに、愚痴=ネガティブ思考な人間に思われないように、家族のほっこりエピソードも加えて和やかな雰囲気で締める気遣いまで添えて。崇に嫌われたくないという沙希の配慮に胸が痛くなります。
そして、後日のお風呂でのやりとり。

「わたし、沢野さんといたら、いつも元気でいられそう。……」
崇は、何か眩しいものを見たように、一瞬、目を細めた。そして、
「どうだろう……」
と、彼女の顔にかかった前髪を撫でつけるようにして分けてやった。
沙希は、いつになく、はっきりと看て取れるほどの表情で後悔の色を示し、視線を逸らした。

『決壊』平野啓一郎

一緒にいたい=彼女として関係をもちたい、と言っている沙希に対して、崇のこの態度。読みながら沙希につい自分を重ねてしまい、崇へのいら立ちが最高潮でした。
最期、警察から戻った崇から、不倫相手の千津の話を聞いて。

「そっか。……わたしみたいな人、たくさんいたんだよね、沢野さん。わたしは、そこまでの存在じゃなかったかもしれないけど。」
「あ、別に責めてるわけじゃなくって、なんて言ったらいいんだろう?ごめんなさい、でも、知ってて会ってたし、大人にならなきゃって、自分でも思ってたから。ただ、そんなふうに直接聞いたことはなかったし、聞きたくなかったから、曖昧なままにしてたし、……」

『決壊』平野啓一郎

暗黙の了解とはいえ、崇との関係を維持するために物わかりのいい女を必死で演じてきた沙希。こちらは一秒でも早く、崇から引き剝がしたい女友達の気持ちヤキモキ。

私にとって愛することとは

私が「愛すること」について考えるとき、基準の一つにしているのがこのTEDトークです。

私もかつて、崇のように「愛するとはどういうことなのか?」と不安になっていたころがあり、というか、割と数年前までそれを抱えていたのだけど、平野さんの「私とは何か」とこのTEDに触れ、愛するとはなにか?のヒントが見つかりました。

私にとって他者を愛することとは、自分を愛することとほぼ同じです。その人と一緒にいることで自分を愛せるようになること、それを私は他者を愛すること、と考えています。
「突き詰めるとね、最後は必ず、功利主義に足元を救われるよ!」「もし愛を自己愛から切り離せるとすれば、絶対に愛し得ない人間を愛することだろうね。」と言っていた崇からすれば、なんと利己的だ、と非難されそうだけど。
だけど、私はあなたといるときの自分が好き、相手も私といるときの自分が好き、という互恵関係であれば、すごくしあわせだと思うのです。

沙希は崇といるときの自分を好きだったのか?

沙希は「わたし、沢野さんといたら、いつも元気でいられそう。」と言うけれど、崇といるときの自分を、沙希は本当に好きだったのだろうか?と思います。
崇が、自分以外の女性とも愛を交わしていると知りつつ、大人にならなきゃと、それを見て見ぬふりをする。無いもの、として蓋をする。
でも、心の底では不安で仕方なくて、話題を見つけてはメールをする。
そんな関係に甘んじている自分を、沙希は好きでいられたのだろうか?
沙希は、崇を愛していたのだろうか?

私は沙希に伝えたい。
あなたが崇に対して抱いているのは、愛ではなく、執着。
仕事や人生に不安を抱えているときに、賢くてエリートで見た目もタイプで体の相性もそこそこいい相手をやっと見つけて、その人を手放したくないだけ。これ以上の人とはもう出会えないかも、という将来への不安から、目の前にいる彼に執着しているだけ。
だから、崇を手放して、好きな自分に出会えるような次の恋人を見つけるんだ。絶対にいるから大丈夫。勇気を出して、沙希!

『決壊』のスピンオフを作るなら、私は沙希が愛する人を見つける物語がいいなあと思いました。

沙希、しあわせになってほしい。
ではでは~。

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