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映画『天気の子』は少年と少女の間違いだらけの選択と恋、その果てを描いた子供に見せられない大傑作

「天気の子、どうも腑に落ちない」と友人は言った。「天気の子、どうも腑に落ちない」と友人は言った。

天気の子を友人と観た。

それまでの私の新海誠作品の鑑賞歴は『君の名は。』くらいで、他の作品はタイトルと、賛否が分かれる作品だということしか、当時の私は彼について知らない。
『君の名は。』を観た時は「伏線もどんでん返しもあり、とても練られていて、上手く作られたストーリーだなあ」といった感想を抱き「映画代金分は充分に楽しめたな」とは思いつつも、結局映画館では1度しか観なかった。そんな私に、『天気の子』は終わった瞬間1人で拍手しそうになった程に刺さった。刺さりすぎて、合計3回劇場で観た。

そんな『天気の子』初見の日。後半40分、ブッ刺さっている私の隣で、一緒に観に行った友人はずっと涙を流していた。だから私は「これは絶賛し合えるぞ!!」と思いながらエンドロールを観ていたのだが……。

劇場の光がついた瞬間に、「めっちゃ良かったね」と言ったら、その友人。

「うーん……これは詮議する必要がある。正直…思ったほどじゃなかった」

眉間に皺を寄せてそう言ったものだから「いやいや、後半40分泣き続けてたじゃん!化粧落ちきった顔面にティッシュカス付けて何言ってるの!」と思った(言った)。しかしこの友人、実写『マーマレードボーイ』を観て、ストーリーそっちのけで「吉沢亮の顔がいい」と涙を流す人間。とりあえず理由を聞いたところ——

「どうにも腑に落ちない。あれで良かったの?」

と言うのです(ズビズビ言いながら瞼腫らして批評するものだからパンフ売り場のお姉さんちょっと笑ってたよ)。
さて前置きが長くなりましたが、その後2人で、天気の子の何が腑に落ちなかったのかを話し合った結果生まれた考察を記します。

徹頭徹尾、行動を”間違える”主人公、帆高。

以下ネタバレ。

あの作品は「『恋』とはどこまでも純粋なエゴだ」という前提の上に、究極のボーイミーツガールを描いた作品なのだと思う。

面白い点が、あの作品は最初から最後まで、徹底して帆高の選択を間違わせている。”社会常識から見て””世間的に”が頭につく形で、だが。

例えば、拳銃を拾ったとき。

おもちゃかどうかに関わらず「警察に届けるかどうか」「元あった場所に戻すかどうか」という選択肢が生まれる。だが帆高は警察に届けないし、元の場所戻すこともなく持ち続ける。これは明らかに「”社会的常識的から見て”間違っていること」だ。

他にも、(家庭にも学校にも問題がある様子が描かれないのに行う)正当性のない家出。豪雨の中で船外に出る。拳銃を人に向ける。など、帆高は「”社会常識的に”間違った選択」ばかりをしている。
一方で陽菜も、年齢を偽ってバイトをする。未成年が水商売を(しようと)する。未成年だけで暮らす。義務教育を受けずに生活している。未成年3人でラブホに泊まる等の「”社会常識的な”間違い」をおかすように、彼らは最初から、間違っている事ばかりをしている。

なぜなら彼らは14歳と16歳。この年齢にもおそらく意味がある。陽菜は作中で15歳になるが、15歳(と17歳)は、受験の為に「未来の事を考える年齢」だ。そして未来を考えると人は「大人」になり、「”社会的に”正しいこと」を意識してしまう。
だから陽菜は15歳になった日、社会の未来を考えて「”社会的に”正しいこと」——人柱になって世界を晴れさせるというほとんどの人々が望んでいること——をして消えた。

そんな「正しいこと」をした陽菜を、穂高が「間違わせ」に向かい、その過程で大人たちが巻き込まれていくのが本作のクライマックスだ。今までに積み重ねた大小様々な「間違い」が、この世界を変えるほどの「大間違い」に集約されていく。

だからあの作品は、「社会的な正義」の象徴である警察と、「社会的に善良な行動をしなければいけない」大人の須賀が、帆高たちの障害として立ち塞がるのだ(だから彼らは至極まっとうな倫理観を持った大人たちとして描かれる)。

”社会的な”正義VS”社会的な”間違いが本作のクライマックス

『天気の子』のクライマックスでは、子どもから順に間違っていく。

まず子どもの凪は最初から穂高・陽菜の「間違い側」として動く。次に「間違い」に巻き込まれるのが夏美だ。就活中…つまり大人と子どもの境にいる彼女は、帆高が「明らかに”社会的に”間違っている状態(=警察に追われる)」で、あえて面白がって帆高の「間違い」に乗る。明らかに就活が不利になるあの選択は、彼女が「大人であることを捨てた」とも取れる。

そして、社会人の須賀。彼は今作で警察と並ぶ「”社会的な”正しさ」の代表だ。娘という責任を持つ社会人の彼は「社会的に間違えることが出来ない人間」である。帆高を助けて合法の仕事を与え、帆高が取るべき道(警察について行って家に帰る)を教え、帆高が(社会的に)暴走しそうになったら殴ってでも止める。須賀はギリギリまで「大人」であろうと、「”社会的に”正しく」あろうとする。それができる人間だからこそ、「”社会的な”大きな間違い」を犯そうとする子どもの帆高の前に最後に立ち塞がる権利がある。本作のラスボスは須賀だと言ってしまっても良いかもしれない。だがそんな彼も、帆高の陽菜への想いに動かされて最後の最後に警察を突き飛ばすという「”社会的な”間違い」を犯し、帆高が間違えに行く背を押した。

まさに「”社会的な”正義」が「”社会的な”間違い」に屈した瞬間である。

「恋」という、純度100%のエゴイズム。

言ってしまえば、『天気の子』とは、「少年少女の恋の前では、”社会的な”正義すらも膝を折る」という新海誠の教義を114分かけて描いた狂気の作品である。それを際立たせるために、あえて前半では青天を喜ぶ様々な理由が描かれる。「綺麗な空の下で一生に一度の結婚式ができた」「生きがいともいえる趣味の撮影会ができた」「亡くなった旦那さんを迎えられる」「大切な娘と遊べる」etc..

しかし穂高と陽菜は、これらの人々の希望をぶち壊すという「”社会的な”大間違い」をおかした。それも「会いたい」というだけの理由で。

あれから、東京では青空の下での結婚式は挙げられないし、撮影会は室内で行われただろう。迎え火を焚けないどころか、おばあちゃんは旦那さんと過ごした家すら手放す事になった。

ちなみに大人になった瀧くんと三葉がカメオ出演していることから、あの世界は『君の名は』の後の世界であることが伺えるが、瀧くんがバイトしてた喫茶店も、2人がすれ違った路線も海に沈んでいるのではないだろうか。下手した再会した坂すらも海に沈んでいるかもしれない(まさか3年越しに「君の名は」の世界までめちゃくちゃにされるとは思わなかった)。

しかも彼らの「”社会的な”間違い」のせいで須賀も夏美も前科持ち(?)になったように、穂高と陽菜はとても世話になった人々に多大な迷惑すらかけているのだ。

彼らの「会いたい」という願いは、どこまでも身勝手で、自己中心的で、エゴイスティックな感情だ。だが作中で「そもそも恋とはエゴイスティックなものだ」と、凪くんが自分の目的の為に「恋心」を身勝手に使っている描写によって繰り返し訴えられているので、そこに矛盾や後付けはない。

「ボーイミーツガールのために世界は犠牲になってOK教」の信者、新海誠(たぶん)

『君の名は。』が少年少女が「正しいこと」をしようともがく映画で、人々を救うボーイミーツガールだとすれば、『天気の子』は少年少女が「間違ったこと」をしようともがく映画だ。だから穂高と陽菜のボーイミーツガールは人々をめちゃくちゃにした。普通の感性を持っていたら、彼らの行いは「正しくない」「酷いこと」と思うだろう。だがラスト付近で「世界なんて元々狂っている」というセリフが須賀から発される。

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