【日記】短歌を詠む生活に思うこと
気がつけば、短歌を読み出して3ヶ月になる。
創作スピードは決して早くないし、ものすごく気合いを込めているわけでもないけれど、これくらいの緩さも抱擁してくれるのが短歌の良いところなんじゃないかなと思っている。
何より、私はどうも、作ろうと思うと上手くいかない節があることに気付いた。
『色気付いたら上手くいかない』
みたいなことだろうか。
良いもの作ろうとか、スキをもらおうとか、褒めてもらおうとか、色んなものが内包してるけど、総じて外に向けた願望みたいなものだろうか。
仕事とかもそうだけど、外向きが先行しすぎると私は上手くいかないタイプ。
私は元々外面が良過ぎる節があるから、結果的に内側が疎かになって、中身のない人間になりがちなのだ。
上辺ばかりで浮き足立って、吹いたら飛んでいきそうな空虚感で自分を満たしてしまう。
そういう時は驚くほど短歌が詠めない。
自分で自分が恥ずかしくなるくらい、くだらないモノが出来る。カタチにはなるけど中身がない感じ。
ちなみに、最初からそうなるだろうなーとわかる時と、作り出してから気づく時がある。基本的に短歌は通勤時間、特に帰宅中に作っているのだが、どうにも上手くいかない時がある。
そういう時は少し手を止めて、1日を振り返ると、その日、自分が自分に少しのウソをついていた部分があったりする。そういうウソを短歌は目ざとく嗅ぎつけて、私に突きつけてくる。短歌にはそんなところがある。
短歌は自分との対話を求めてくる。
57577の三十一文字に何を乗せたいのか、自分の感覚や伝えたい情景は何か、それを表現するために的確なコトバは何か、不要なモノを削って何が残るか…そんなことを無心になって考えられると意外と良いモノが浮かび上がったりする。
そして時々、ドキッとする出会いもある。自分の内側にこんなものがあったのかと思ったりもして少し慄く。
こうして内側を緩ませて自由に遊ばせるのだが、それだけではカタチにならない。ここで初めて色気=外が必要になる。
ある面でそれは制限やルールを指している。いわゆる「定型」と呼ばれる57577に収めないとそれは短歌とは言えない。もちろん収まらないこともあって、それも短歌は許容してくれるのだけれど、自分は本当にそれで良いのか、改めて考える必要がある。いくらでも手を抜けるからこそ、そこで字余りや字足らずにすることについて、自覚的でありたいと思う。
一方で、今私は「字足らずに『する』」と能動的に書いたが、「字足らずに『なってしまう』」偶発性や気まぐれにも開かれておきたい。
意識が行き過ぎると堅くなるし、気まぐれが過ぎると収拾がつかない。その間を悠々と泳げるくらいがちょうどいい。
周りを気にして色気が過ぎると気持ち悪いし、内に籠って孤高が過ぎると半ば妄言になる。両方にゆったり靡かれていたら、そのうちゆっくり何かが生まれる。そんな気がしている。
そうやって風に吹かれて短歌が生まれた時、なんとも言えない達成感がある。
決して派手でも、はっきりとした手応えがあるわけでもないけれど、じんわりと暖かい血液が身体を巡るような感覚がある。
それは弛んでいながら生き生きしている。
そんなパラドックスを孕んでいる。
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