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【読書感想文】僕らはそこに居られるか


読書感想

本日はこちら。

本書は歌人・萩原慎一郎の第一歌集であり遺歌集である。
あとがきには筆者のコメントが書かれているが、その直後に自死している。筆者の両親による文章も添えられているが、その内容はもちろん、書かれた日付が筆者のあとがきのそれと、ほんの数カ月しか違わないことの生々しさを痛切に覚える。

この生々しさは、歌集全体に、まるで通底奏音のように響き渡っている。

基本的に口語で書かれた短歌たちは、どこまでも日常を切り取っていて、どこまでも現実に突き当たる。驕りも、余裕も、フェイクもない、どこまでも歌人・萩原慎一郎その人の生活がそこにはある。

「東京」「非正規」「毎日の雑務」等の言葉からは、決して楽ではない毎日を、何とか凌いでいる様子が伝わってくる。
「自転車」「牛丼」「自販機で買ったコーヒ―」からは生活は出来ているものの、裕福さは感じられない。ぼんやりとした苦しさや漠然とした将来への不安が、こちらににじり寄ってくるような感覚すらある。目を逸らしたくなる。

「太陽」の描写も多いが、どれも晴れ晴れとした気持ちよさと言うより、斜陽が鈍く差しているような重たい眩しさを感じるし、おそらく成就しなかった「恋」も鋭く心に突き刺さってくる。
20代を超え、30代になった僕(筆者)は、それでも生活を続けているが、その陰には絶望の匂いがいつも漂っていたのかもしれない。

筆者の作品は口語で日常を切り取ったような作風が多いことに加え、一首の内側や連作の間で、繰り返しの表現が多用されていることも特徴と言える。しつこいくらいに同じ単語が短歌の中で繰り返されており、執拗に訴えられ、迫られているような感覚になる。

シュレッダーのごみ捨てにゆく シュレッダーのごみは誰かが捨てねばならず

テロリズム

好きだ 好きだ 好きだ 好きだと伝えても届かない恋ばかりしてきた

だだだだ、だだだ

この繰り返しを真に受けているうちに、耳元でそれを繰り返されているような気持ちになり、まるで白昼夢や幻聴を体験させられているような思いにすらなってくる。
すると、この繰り返しはもしかすると、筆者の咀嚼行為だったのではないかと思えてくる。
筆者が自分自身と会話して、やまびこのように返ってくる言葉だったり、自分の中で増幅させたり、咀嚼して消化するためのプロセスに、私たちは立ち会っているのかもしれない。

そんなことを思い出した時、この一首が立ち上ってきた。

癒えることのなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ

テロリズム

筆者はとても傷ついていた。

傷ついてしまったこころ どぼどぼと見えない血液垂れているなり

こころの枝

「悲しみ」とただ一語にて表現のできぬ感情抱いているのだ

あこがれのひと

それは中高時代のいじめの影響もあるかもしれないが、彼自身、とても繊細な人なのだと思う。それは歌集の表現を見れば明らかである。
とても誠実で、時々こちらが苦しくなるくらい真っすぐに物事を見つめられる人なのだと思う。
巻末に解説を寄稿している又吉直樹氏もこのように表現している。

白状すると自分はこのように世界をを見たことがない。私が見ている風景はもっと濁っていて、嫌らしい。(略)萩原さんの目を借りて見るこの光景が美しすぎて胸が痛い。この人の網膜を通して美しい風景をもっと見たい。(略)平凡を笑うことこそ平凡なのだ。繰り返すが、萩原さんの優しさに充ちた感性こそが非凡なのだ。

解説 優しさに満ちた非凡な感性

又吉氏の解説は本当に感動するので、是非、手に取って読んでもらいたい。

一首評 『癒えることのなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ』

ここからは私なりに先の一首を読み込んでみたい。

まず、上二句までで私は激しく絶望した。

癒えることのなきその傷が

もう答えが出ている。
その傷は、もう、癒えることはないのだ。彼はそう言い切っている。
これほど絶望的な状況が、他にあるだろうか。

彼のこころはどぼどぼと血を流し、出血多量で今すぐに手当てが必要な状態なのは言うまでもない。
でも、彼の生活の中に、そんな余裕はあるのだろうか。なんとか毎日をやり過ごしている中で、非正規雇用、自転車操業で日々を食いつなぐことがやっとな状態で、どうやってこの傷を癒したらいいのだろうか。

これは決して他人事ではない。日々を暮らす私たちも同じことである。
傷を癒すために、どこから、何を、どれだけ、捻出することが出来るだろうか。果たしてそんな余裕はあるだろうか。
そんなことを思案している間に、血はどぼどぼと流れていく。

こうした状況を含めて「悲しみ」とひとことでは言い表せない感情を、彼は抱いていたのではないだろうか。

それでも彼は『癒える』を繰り返し、下の句では希望すら見出そうとしている。ここにはどこか自分に言い聞かせているような印象すらある。
そして『癒える』『癒える』『癒える』と繰り返す様子は、まるで幼子がおまじないを唱えるかのようですらある。それは願いであり、祈りなのだろう。

さて、こころの傷はどうやったら癒えるのだろうか。
精神分析の祖、ジグムント・フロイトは自身の論文(正確にはフロイトの同僚、オイゲン・ブロイラーが担当した患者アンナ・O嬢との事例が元になっている。)の中で「煙突掃除」と言う概念を提唱している。
ざっくり言うと、「自身の状態について話すことで症状が消失する」というものである。話すことが、いわゆる「カタルシス」につながることである。

つまり、『癒える』は『言える』なのだ。
この一首もそう読み変えることも出来るのかもしれない。

言える・・・ことのなきその傷が言える・・・まで言える・・・その日を信じて生きよ

傍点部ははやぶさによる変更

下二句の『信』という言葉も『人』に『言』うであり、私は筆者が誰かに言う・話すことをどこかで切望していたように感じてしまった。

そして、彼は話すことはできたのだろうか、と。

話すことは簡単なようでとても難しい。
話すことは、その主体側の準備性が問われる。適切な言葉に表現することの難しさや、自分の中にあるものを外に表出する(話す/離す/放す)ことの覚悟、それを手放した先の世界への信頼感等、話すということには多彩な課題が付きまとってくる。

それでも彼は、それを歌に込めた。

あとは、我々だ。
受け手の我々が、これをどう受け止めるか。
目を逸らさずに、そこに居られるだろうか。




【あとがき】
歌集を読んだのは初めてかもしれないですが、すごくいいものなんですね。
萩原さんの歌集は自分には本当にヘビーでした。ちょっと真っすぐすぎて、途中でとても苦しくなってしまったのです。タイトルはそこへの戒めです。
同時に、私は苦しくなったら途中で読むことをやめられたけど、彼はどうだったんだろうと思ってしまったんだよね。彼は徹底的にこの苦しさと向き合い続けたんじゃないかなと。それを抱える責任感や重さはいかほどだったのかと。
よく「自殺は逃げ」とかって言うけど、本当にそうなんだろうか。亡くなってしまったことは本当に悔やまれるけれど、重荷を下ろしたくなる気持ちにはどこまでも寄り添える人間で居たいなと思います。
今回の感想文、暗い部分にばかり焦点を当ててしまったけれど、折々に筆者の優しい視線や素朴で暖かい世界も広がっています。そんな気持ちを他者に持てる人間でありたいですね。

優しい人間でありたいね。

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