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築かれるものと気疲れ。

若さと老い、男と女、人種、経験の積み重ねの有無にとらわれず、その人との対話を楽しみたい。それは、その人との関わりの奥にある豊かさを知りたいから。

きょうの話は、
“声を大にして言うのは、実績が積み上がってきてからだろ。“とか、
“若いお前にはわからんだろうけど”というような一方的な言葉を受けたフラストレーションの行き場に困っているからここで書くことにした。

実力があるから言葉が伴うのか、
言葉があるから実力が伴うのか。については、僕は後者だと信じている。
いや、そう信じたい。
そして実力がある人は、自らのことを実力があるとは言わない。

その実力に到達するまでの明確なビジョン、背景、物語という言葉があってこそ、その実力が培われるものだと思う。

こういうふうに、この後もぼくの自己満足のストレス発散が続くことを承知の上、読み進めるかすぐにブラウザを閉じてほしい。きっとこの話はフィクションかもしれない。

建設的な話がしたいと言う人の中には、マウンティングという名のセルフビルドを繰り返す人がいる。そこに対話によって組み合わさった構造物という美しいものはなく、築かれるのはお相手のしてやったり感と僕の気疲れだけだ。

若い人が山仕事に来ない。と嘆きはするものの、27歳の人を目の前にして幾千ものマウントをとっているのであれば、その嘆きが出るのもうなづける。俺は凄いと言われても、僕はあなたの仕事を目の当りにしていないからなんとも言えない。みてみようとも思えないんだけれど。

その人によれば、“分からない“と言うのはダサいらしいけれど、僕はそう思わない。分からないことを分からないままにして、それに対してアクションをせずに、そのままにしているほうがダサい。と思うからだ。多分に、その前者の“分からないのがダサい。“という言葉の裏には、なんでこの俺に聞かないんだ、こんなにも俺は知っているのに。というような傲慢さが見え隠れする。

ある程度、フラストレーションが落ち着きを見せ始めてきた。こうして書き出すことは、頭の整理になる。

僕が山に入るきっかけになった人物は2人いる。

その2人が僕に施してくれたように、
僕は、山仕事をする人との対話を楽しみたいし、なぜそうしたいのか。ということを山仕事や話をする中で知りたい。

これから先もこういうふうに出会う人の全てが僕にとっての清なるものではない。その濁なる水を清なるものに抽出するのもまた、自らが与える言葉なのだと、僕は思う。

あぁ、言葉あそびも楽しいね。



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