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カイセイ二チル 【エッセイ】

20歳の誕生日を迎えた年の春の月、僕は社会人1年目だった。
はじめての『社員雇用』は地獄だった。まさに自由のない奴隷。
これだったらピラミッドを建てた方が余程ましだと思えた。
とりあえず、偉業なわけで。

誰かがピラミッドを見たら、あれ作ったの、俺、俺
って言える。

僕の仕事は、「なーーーーんにもなくなっちまう」仕事だった。
特に僕が接した人から、僕の存在は抹消されてしまう。
なんだったら、会って話した6秒後には僕のことなんて忘れっちまってるのさ。

それから仕事の人間関係もクソだ。自分の好きな人間とだけつるめないってのも、おかしな話じゃないか。友達だって、嫌いなやつとはならないのに。

いざ、社会に巣立ってみて、様々な人と接してみてわかったことがある。
それは、世の中の大半の人間は皆ちょっとずつ頭がおかしいってことだった。
学生の頃は、普通の誰かの友人だったってのに、なぜ少しでも社会に染まるとすぐに頭がおかしな奴になっていくのだろう?

入社前に受ける健康診断の注射に何か人間の頭を吹っ飛ばすような成分が入っているのだろうか?

「トイレは大丈夫ですかぁ」
手は椅子の肘置きに縛られ、足も椅子に縛られていて、自由がない。
声は出してはならないルール。職員が僕の目の前に来たら、首の動きでアピールする。
「ごはんですよ、はい、あーん」
主食、副食をミキサーにかけてグチャグチャにしたものが口に運ばれる。

ようやく小窓の向こうが夕方になる。
この日はとても長かった。

「はい、お疲れ、森君、どうだった老人体験、大変だったでしょう?これが認知症になって頭がぱっぱらぱーになった老人の気分だよ、たまんないでしょう?言いたいことも言えないしさ、身体だって自由に動かせない、うちで働いてもらう人にはさ、必ず初日やってもらうんだよね、一日介護体験、明日からはさ、通常業務だからだーいじょぶだーいじょぶ、なんていうんだっけ登竜門?とりあえずお疲れ、また明日」

次の日からは、僕は一人の老人とよく時間を過ごすことになった。
昼の食事介助の時も、その人の隣で、名前を健治さんと言った。
いわゆる担当介護者だ。
僕に与えられた任務は、健治さんの芋嫌いを治すか、半強制的にたべさせることだった。

「健治さん、芋食べないっすよね、嫌いっていってましたもんね、僕こっそりもらいますよ」
「そうかい、助かるよ」

まぁ嫌いなものを食ってもしょうがない。それってこの人の残された時間で達成しないと天国にいけないミッションでもないと思った。
だから、僕が食べたり、こっそり捨てていた。

他の職員はなぜ、残すことを許さなかったのかちっともわからなかった。残すってそんなに悪い事かなと昔から僕は思っていたわけだから、全然考え方が合わない。

「それが命に対する礼儀」とか真面目な顔して言うけどさ、
もう動物は狩られて死んじまってるし。
もしもさ、『進撃の巨人』に出てくる巨人が
「いただきまーす」って走ってきたら、
「あ、なーんだいただきますか、なら蹴られて死ぬよりましだ、よかったぁ」ってなるだろうか?

死ぬって、ことには死ぬ意味しか残らない。死ぬことの意味によって死がかわることはない。
どんな理由であれ、殺された方は殺された事実しか残らないのだ。
食べ物に感謝する気持ちがあるのだったら、個々人がもっと人から被る迷惑に寛容になった方がよい世界が築けるのでは?なんて、余計なお節介をやいてしまう。

そんなこんな不満に思いながら、僕は健治さんの横で芋を食っていた。

健治さんは僕の名前を覚えてはいない。
ただ、僕の顔を見るといつも
「お、やるかい」
と僕の了承を得ず畳部屋に行って、将棋盤を広げる。

僕のことを将棋仲間、という程度の認識は持ってくれているようだった。

静かな部屋に響く、盤に駒を打つ音。
認知症を患っているから、平気で二歩をしてきたり、その時のコンデイションによっては将棋のルールすら曖昧になることがある。

それでも試合は試合として進み、
僕が勝つと
「お、おぉぉ参った参った、アンタつぇえな、もう勘弁だ、将棋はやめる」
といじける。
僕がわざと負けると
「アンタ、かっらきしだね、よわいねぇ、つまんねなぁ」
となるものだから、もうその日の気分で勝ってみたり負けてみたりの繰り返し。

僕はある日、将棋を打っている際に健治さんの芋嫌いについて聞いてみた。
「健治さん、なんで芋嫌いなんすか」
健治さんは渋い顔をして教えてくれた。
「戦争の時に、俺は兵隊でよ、食うもんがねぇから芋ばっかり食ってよ、それから嫌いになったのよ」

そうっすか、と僕は王手をかける。
「おぉぉアンタつぇえな、参った、もう将棋はやめだ」

介護の夜勤は長い。
身体だけは健康だから力もあるし、夜はみんな少しずつ不安定になり活性化しているから、老人たちも外へ逃げだしたり、便を壁に塗ったりなんてことが多々あった。

夜勤中、利用者の部屋をこっそり開けて中の様子を確認する見回りをしていたある日、健治さんは部屋で敬礼をしながら泣いていた。
僕は本当にちょっとちびったし、なんなら腰も抜かしかけた。
めちゃめちゃに怖いよ。真っ暗な影の中に、敬礼して泣いている人影があるんだぜ?
ジャイアント馬場だって倒れると思うんだ。

僕は慌てて、健治さんの部屋に入って事情を聞いた。
「今でも戦争の夢を見るんだ、それでそこにはかつての友がいて、俺だけが生き残っちまって、俺は毎日毎日それを恥じて、夢で友がいて、立派な戦死を遂げた友が……」

戦争で生き残ったことが恥なんていう考え方があるのかと、思った。
90近くになってもその考え方に固執しているくらいだから、僕はそんなことないですよなんて下手に言えなかった。
戦争が終わって何十年経過しても、かつの価値観の核を手放さずにいる。僕に言えることはない。

何も言わず、健治さんの話を聞こうと思った。
部屋を玉電にして本来は健治さんが眠るベッドに僕が腰かけて、健治さんはまだ敬礼して直立している。
本当だったら腰は曲がっていたし、人口ストマだし、敬礼だって僕が知っている位置より随分と手が低いところにあったけれど、彼はそのとき、真っすぐに立って日本やかつての友を直視しているように見えた。

「俺はよ、回天の乗組員だったんだ」

「すいません、学がないもんで、カイテンってなんすか?」

健治さんは深呼吸した。

「人間魚雷だよ、人間魚雷回天、魚雷のなかに人が入って、相手の戦艦に特攻すんだ」

僕はそのとき、はじめて魚雷に人間が乗って操縦する兵器を知って、その兵器の無謀さに直ぐに抑えきれないほどの怒りが込み上げてきた。
神風だってわけわからないのに、それ以外にも死ぬことを前提にした戦法があるなんて、意味がわからない。

「いよいよ、敵の戦艦が近づいてきて俺達に命令が下った。皆誇らしかった、何人の友と最後にタバコをやったよ、そのなかの友が俺達にこういった、俺たちは日ノ本の快晴に散る、本望だなって、俺はあぁそうだ、いいこというなと思って、回天に乗り込んだ」

「それぞれがよ、順番に発射されていくんだ、音がして振動がして、最後の声がして、いなくなる、俺の番だ、俺の番だってずっと待ってよ、ようやく、その時がきたんだ、俺は出撃しようとした、そのときだ、どこかが故障しやがった」

「それで下手に動いた回天のなかで頭をうって気絶しちまったんだ、すぐに目が覚めたけど回天は故障していて、予備もなくて、戦争が終わって俺だけが生き残った、それからずっとずっと恥ずかしくてしょうがねぇんだ」

それから、健治さんは僕が夜勤のたびに、夜の亡き友に向かって敬礼していた。
戦争の話も沢山きいた。訓練が厳しかったとか、回天の操作方法を覚えるのが大変だったとか、仲間と将棋をしたとか、晴れた日は彼らをよく思い出すとか、生きているのは恥ずかしい事だとか。

一緒に流しそうめんだってしたし、相変わらず将棋では忖度もした。
芋もかわりに捨てたり、僕が食べたりした。

健治さんは90何歳かで死んでしまった。
朝、ぽっくりと介護施設の部屋で亡くなっていた。
僕は立ちあっていなかったけれど、担当者ということで、すぐに連絡がきた。

その日は、本当によく晴れた日だった。
外では桜が咲き終わり、散りだした頃だった。





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