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どうしたって早く逝ってしまう犬と、午後5時の落雷

父も母も弟も、アウトドアな趣味をもっていて、必然的に、休日のどこかの時間にわたしはひとり家に取り残されることが多かった。いや、正確にはひとりではなく、わたしの他に、家から出ない(正確には庭から出ない)飼い犬も一緒だった。

彼の名前はクロといって、柴犬と甲斐犬のミックスらしく、弟が幼稚園の門前に捨てられていたのを連れて帰ってきて、わたしたちの家族になった犬だ。まごうことない犬で、のんびりと眠っているかと思うと、知らない来訪者に急にバウバウと果敢に吠え挑む、ほんとうにひたすら、犬だった。

クロを連れて帰ってきた弟は、彼の世話に1週間で飽きてしまい、その後はもっぱら、クロは母か家にこもりがちなわたしと、一緒にいる時間が長くなった。日中は庭で放し飼い状態で、夜や天気の悪い日は玄関にいる。お行儀のいい、外を好む犬だった。

その日は、朝から天気がぐずついていて、でもなぜかわたし以外の家族はみな外出予定があり、血がつながっていてもこうも趣味嗜好が違うものかと不思議に思う日だった。しかし、人がいない家は、静かで大きな箱で、暖房のきいたリビングは、最高の読書環境になる。いつの間にか聞こえていた雨の音も、心地が良い。ザリザリしていない、純度の高いノイズ音は耳に馴染みやすい気がする。

SF小説にありがちな分厚い文庫本をようやく最後まで読み終えたとき、ゴロピシャンと大きな音が鳴り、窓から強烈な光が入ってきた。驚き、文庫本を投げ出して窓に走り寄ると、何回か光の筋が仄暗い空にひび割れを作って、そのあと大きい音が降ってきている。雨音の様子は、澄んだノイズのままだったが、雷鳴との相性は最悪だった。

あっ、と思って、リビングをでて、犬を見た。クロは、パッと顔を上げて情けない顔でわたしを見つめ返してきた。そうなのだ、彼は、雷が怖いのだ。なので、天気がぐずると、大好きな外ではなく、家の中に入ってきたがる。小さな声で彼の名前を呼んで、玄関に座ると、クロはよたよたとこちらに寄ってきて、ぴったりわたしの身体にくっついて顎を肩にのせてきた。彼がおすわりをしたときの顎の高さと、わたしが座ったときの肩の高さがちょうどよいのだ。

震えている、と思った。犬が、ブルル、ブルル、と携帯のバイブレーションみたいに、震えていた。雷鳴が聞こえてくるたびにそうなるので、わたしは、ぎゅっと犬を抱きしめる。サリサリとした夏の毛と、モハモハとした冬の毛がまじった彼の抱き心地は最高だった。

雷鳴は止まず、雨も降ったままで、いい加減にどうしたって、暇になってくる。彼のそばを離れるのもなんだか違う気がして、ぐるぐると思案した。クロがお気に入りのぬいぐるみで遊んでみるかと思ったが、隣でまだ定期的に震えている彼の様子を見ると、いまじゃなくていいな、と思い直した。

首を捻って、あたりを見回して、見つけた。
犬用クッキーがたくさん入ったガラス製の缶。

どうやっても立ち上がらないと取れない位置にあったので、クロに「ちょっと失礼」とひと声かけて立ち上がり、クッキーの缶と、そのままキッチンまで走っていき、電子レンジであたためた牛乳を用意する。しばらく側を離れたことが、よほど彼を不安にさせたのか、食べ物を持って再登場したわたしに、クロはかなり強く、切実さをにじませた声で、バフッとひと吠えした。

クロの横に座り、クッキー缶から1枚、骨の形をしたものをとりだし、ちゃぷっと牛乳に半分ほどひたす。彼はわたしの指先を興味深げに眺めて、その引き上げたクッキーが自分の口にはいるのを待っていた。
家族の趣向は似る言う。まあ、インドアなわたしとアウトドアな家族の趣向は似てないように見えるが、ただひとつ、食事に関しては、クロも含めて似ているんだと思う。食べるのが好きなのだ。どんなときでも、食べていれば大丈夫だと、家族全員が信じて疑わない。

牛乳を含んで、すこし柔らかくなったクッキーを彼の口元に持っていく。舌先で器用にすくわれ、ハグっと口に含み、シャクシャクと3回口を動かし、喉に通し、口の周りを舌でなめて、次を所望する。

ねえ、きみ、さっきまであんなに震えてなかったけ?

笑いながら、2枚めのクッキーを浸し、今度は自分の口に運ぶ。犬用のクッキーはほとんど味のない、簡素でチープなそれだけれど、牛乳に浸された部分にだけ、味がして、不思議と癖になる。手放しに「美味しい!」と言えないけど、しみじみと、食べすすめてしまう。

ノシっと、肩に重みがかかって、見ると、クロがフンッと鼻息荒くこちらを見ていた。雷は、まだ遠くで鳴っているみたいだけど、彼は、すっかり、大丈夫になっていた。もうこうなったら、わたしはクロに甘いので、すぐに次を用意してあげたくなる。とはいっても、おやつの食べ過ぎは、子どもも犬も許されない。

「ママには内緒だからね」と言って、お互いにクッキーを消費したけれど、思いの外少なくなったガラス缶の中身を、母が気がつかないわけがない。帰宅した彼女から落とされた雷に、クロは震えず、わたしばかりが震えることになった。

東京は昨日の夜から、窓の外でけたたましく、ドボドボと雨が降っていた。雷が、遠くや近くでビカビカと光っていて、音も大きかったり小さかったりして、ずっとせわしなかった。

朝になっても、それは変わらなかった。
雪がふらない東京の、キーンと耳鳴りがしそうなほどに、凍える寒さと激しい雨と雷を、なんの音楽も流れてこないイヤホン越しに聞きながら、わたしは待っている。東京駅のホームで、始発の新幹線を待っている。駅まで送ってくれたタクシー運転手のおじさんがくれたホッカイロは、コートのポケットの中で、まだ温かくはならなかった。

「なあ、クロが死んだ」

音楽が流れていないイヤホンから、弟の声が聞こえた気がした。夜中にすでに聞いた言葉だ。落ち着こう。深く、水分を含んだ外気を体に取り込む。青みがかった早朝の景色の中で、息ばかり白くて、困った。

犬用クッキーの缶は、まだ中身があっただろうか。あったなら、一緒に焼いてあげないと。でも、クロが好きなのは牛乳に浸して少しふやかしたクッキーだから、焼き過ぎで気に入らないかもしれない。

新幹線は、まだ来ない。ホッカイロがだんだん温かくなってきて、その温度が、抱きしめたクロの体温に似ている気がして、頭がぼうっとした。ホッカイロを握る手以外が、キンと張り詰めていて、ただ痛かった。

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