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46 アドバイス・・・クソ喰らえ

 前回は、私たちは他人の言葉を聞くだけで思考の「支点」を自分の脳の外に簡単に持っていかれてしまって半ばパニック状態のようになり、すぐに正解を求める習慣を身に付けてしまっている。そしてその事から自分のものであるはずの思考を他人に奪われてしまう。しかもそれに気付かないという話をしました。

 さて、今回ですが、こんなところから始めてみましょう。まずは画像の上に描かれた短い文を読んでみてください。

 いるいる、どこの職場にも一人や二人、面倒臭いおじさんが! 一応先輩だったり上司だったりしますからその人の言う事は聞く必要があるのですが、内容はくどいし、古いし、そして前に何度も聞いている。だから皆して聞いているふりはしますが心の中では「ちっ、早く終わらないかなあ」と思っていますし、こうならないようにできるだけその人には近付かないと決めているのです。困ったものだ。

 なあんて、思いましたね? それが普通だと思います。自分だってもう少し年齢が高くなって後輩もできるでしょう。部下も持つことになるかもしれませんからそんなオヤジにならないように注意しなければ・・・。皆から無視されたり裏で軽く扱われて孤立するようでは辛いですから。ああ、それだけは是非とも避けなければ。

 はあ〜、将来に向けて頑張らないと! といったところで息抜き息抜き。歌でも聴きましょうか。


 これ、少し古いですが、有名な曲ですね。既にスタンダードナンバーと言っても良いと思います。(🎵そうさ、僕らは世界にひとつだけの花、一人一人違う種を持つ、その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい🎵〜)

 あれ? さっき、その僕らは他人に無視されたり嫌われたりしないように、そして孤立してしまわないようにって、共感したばかりだったけど、この歌にも共感しているぞ。この歌は皆それぞれ違うんだから「ありのままの自分で良い」って言ってるんだよな。矛盾してる2つの言葉にどっちも共感してる自分ていったい・・・。

 ちなみに、「ありのままの自分」という言葉が使われている歌は検索しますと軽く200曲を超えて出てきます。あらゆる場面でそれが言われているわけですが、それと同じかそれ以上に「孤立しないようにしなきゃダメだよ」というメッセージも言われています。つまり私たちはそんな矛盾したメッセージを右の耳と左の耳から同時に聞かされなければならない世界に生きているのです。しかも私たちはその事に矛盾を全く感じないほど麻痺してしまっている。

 それでどうなっているかと言いますと、「自分なりに自由にやりたい事を追求しよう」と夢を描きつつ、小声でこう注釈を付けます。「他人迷惑にならない範囲でね」「あまり目立たないようにね」「誰かの役に立つ生き方ならOK」日本的中庸の美徳でしょうか? とまあ、考え過ぎてしまうと「じゃ、どうしたり良いの???」と迷ってしまいます。

 最近よく言われる事ですが、昔の文豪と言われる人たち、例えば芥川龍之介、太宰治、川端康成、菊池寛、中原中也などですが、どうみても変人のような振る舞いをしていたと言われます。他にも芸術家のダリなども見た目からして変ですし、有名人の中にも私たちの常識的なそれとは違う行動パターンを持つ方が多いと聞きます。そうした人たちの中の誰か一人が私の職場にいたとしたらどうでしょう? これはもう間違いなく前述のうるさくて面倒臭いおじさん(またはおばさん) のはずです。この仕事を効率良く進めるために綿密な計画書を書いて、ミーティングして、PDCAを回してなどと普通の事はせず、何か独特のこだわりがあって他人が何か口を挟もうとすると不機嫌になるか突然怒り出すかもしれません。

 もうお分かりだと考えますのでこれ以上そこを追及するのはやめておきましょう。ともかく私たちの住むこの社会はこうなっているのです。つまり、自分自身で自由にいろいろやって良いよと皆して言うには言うのですが、突き詰めていくとあまり自由に振る舞うなよ。それやってると寂しい人生が待っているからな、という言われてしまいます。そういうのが嫌と言う人は多いはずで、こうした状況を「同調圧力」という言葉で表現します。「自称完璧人間にならないで」にシンプルな説得力がありますのでこれが同調圧力と気付く人は少ないと想像しますが、いかがでしょう?

 さて、そうなりますとこれから自分はどんな生き方をしていったら良いのか、考えてしまう事でしょう。あまりに自由にやって孤独を味わうのは辛いですし、だからといって自分を殺して生きるのも同じように辛いです。うーん・・・、何か上手いやり方があるのでしょうか?

 答えは「無い」です。それでは何の解決策にもならず、辛いばかりの人生を・・・?

 いいえ、ちょっと待ってください。視点を変えないといけません。どういう事かと言いますと、問題がどこにあるかと考えるのです。自分がどうするか?と問題を定義してしまいますと、全部自分で引き受けなければなりません。ですが、実際に問題が存在するところは「自称完璧人間になってしまう自分」ではないのです。その自称完璧人間とやらを認められない周囲にあるはずです。その人がどうありたいかを真剣に自分で考えて行動した時に、「それでも良いよ」と言ってあげられないとしたら、言ってあげられない方に問題があるのです。なぜなら、その人の自由は人としての権利を単に自分が不快であるとして認めないのですから。

 ですから「自称完璧人間にならないでね」はアドバイスではないのです。言い換えれば「テメー、俺の周りで不愉快な事するんじゃねえ」となります。そんなのは余計なお世話でしかありません。そうです、私たちはこの社会環境が私たちを窮屈にしていて私たちの自由と人としての権利を容赦なく、そしてとてもカジュアルに奪っている事を考えなければならないのです。世の中にはいろいろな人がいてそれぞれに別々の考えを持ち、別々のそしてもしかしたら相当に変に見える行動をとるのが正常なのです。

 途中で休んでは書き、休んでは書きしていたので文章が変かもしれません。わかりにくかったらごめんなさい。今日はここまでです。

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