2024/03/11の記録(昨日)

昨日は、311だったのだな、と今書いていて改めて思う。その頃、私は祖父母の実家で、ちょうど午前中に終わった学校からそのまま祖父母宅にあがりこんで、ネットをしていたように思う。家が潰れるかもしれないから外に出ろと言われ、それって巷で言うところの逆じゃないの?とツッコミをいれつつ、祖父にしぶしぶ従い、外に出た。あれから、本当に古い家は倒壊することがあり、そちらもかなり危険、と知ったのは社会人になってからだった。しかし、祖父母宅のまわりには、電信柱があり、あれらが折れて倒れてきていたらどうなっていたのか。あの家で、私がとるべき行動はなんだったのか、今でも分からない。

怨みはらさでおくべきか

上記セリフを見たのは、地獄先生ぬ〜べ〜のとある話だった。恨みはらさでおくべきか。怨みはらさでおくべきか。反語なので、最後は「いや、ない」とつくのだからなぜ聞いたと思わせるほどの、この問いかけに似た強い感情。覚悟ではない。強い怒りだ。

3/6にRASを受けてから、何だか身体がおかしい。いつもの自分じゃないのだ。強い怒りを抱き、それについてもし●●だったら、こうしてやったとかもし●●でないなら、こうだったとかを15~30分以上考えていると、身体感覚に異常をきたすようになってきている。昨晩はなかでも一番早く、母に対しての怨みからifを色々と考え、同じところをぐるぐるしていたら、突如、心臓の部分から「ぽきっ」と音がして、一瞬胸が軽くなったかと思ったら、途端にずんとそこが重くなり、悪心というのか、気持ち悪くなった。早くこの考えをやめないと大変なことになると焦って、その瞬間から母への怨み関連を考えないようにすると、またふと嫌な感じが消えた。吃驚した。病は気から、の感覚を知ったようにも思ったし、そういう考えによって前進することはないのだ、という体感のようにも思った。一昨日、またその前日の夜だったか、それも入床してから、30分ほどずっと怨みからifを考えていたら、仰向けになっている自分の背から世界が崩れていくような感覚を味わった。身体中がぐんにゃり、波形になってまるで波に漂いながら落ちていくような、謎の感覚。最初なんだ?と怖かったが、不思議と安心感もあり、このまま落ち続けようという気分になって、そのままその感覚に委ね、目を瞑ったら、即効で寝てしまったらしく9時間は寝た。その時も、嗚呼これ以上考えても無駄ということなのかな、と思い、考えを中断した。明日の自分なんとかしろ、とも思った。泉谷さんの本などからは、眠りがはたす記憶整理の役目も相当大きいとのことで、寝ている自分、なんとかしろ、だったのかもしれない。寝ている自分なんとかしろ、って面白いですよね。何もしていないようで、その実脳は、体は、大整理に遁走している。静なる動、とはまさしくこの状態なのかもしれませんね。毎日ごとに訪れる小さな死。また泉谷さんの言葉を借りれば、他人行儀の「意義」はなくとも、「意味」はわんさかある一人一人の生であるならば、それが引きこもりだろうと、いや、引きこもりだからこそ、壮絶な生があるはずなのだ。と、最上和子さんの「私の身体史」を読んでみたよ、というアピールもしながら、今日3/12火曜日を生きております。

私は本当に寂しかった。

自分を救えるのは自分だけ、なんて、あまりに寂しい世界だと本当は思っていました。なんて冷たい世界ですか。おかしいじゃないですか、なんで父と母は私を助けてくれないんでしょうか、私がしてほしいように。いや、もっと言えば、私がしてほしいと泣く前にどうして気づいてくれないのでしょうか。他のことには気付くのにどうしてこれだけは気づいてくれないのでしょうか。わざと無視しているのか?ー

頼れるべき人に頼りたかった。頼れるお母さんに、頼れるお父さんに、ちゃんと手当てしてほしかった。私がその痛みに気づくよりも早く。
それが、私の願いだったわけです。ただ、現実は頼れる存在とは言えない両親がいる。そこからなのです。
昨日、4回目の心理セッションがあり、私は上記の思いを吐き出しました。つまるところ、私の願いはそうなのです。私が認めた、私が助けて欲しい人に、私の期待以上に私を助けて欲しかった。ただ、それは叶わないという現実。自分が変わる方が、早そうだ、という現実。どこか憑き物が落ちたような感覚を覚えることも最近はしばしば、もしかしてそうやって1日のなかではっとする回数が増えれば増えるほど、「回復」というか「改善」となっているのかもしれませんね。私は寂しかった、助けて欲しかったんだ、という気持ちを認めてやっただけでも、私はどこか、この地に足をおろせたような感覚を覚えます。

接待やめよう

どちらかと言えば接待されるべきなのは病み上がり?というか落ちて底について上がってきた海人のような感じのこの私なのだ、とカウンセラーさんに言われて、変に接待する感覚をやめました。みんなに喜んで欲しい、という気持ちと、そうやって変に気を使う・人の顔色見るというのは、表裏一体だ、と瀬尾まいこさんの「夜明けのすべて」で男性主人公が女性主人公に言ってましたけど、まぁそれも一理あるかもな、と思いつつ、私はその主人公よりアクも強ければ我も強い別人なわけで、自分の喜び・〜したいを優先させたい願いがあります。何が本当に不当なのか、よくよく心の声にしたがってから、この理性のおつむで考えたいです。私は本当は全部知っているんだ。とどこか実感を持って感じつつあります。

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