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<短編小説>りんごの香り

 キャンドルに火をつける瞬間、いつも少しドキドキする。だってやっぱり火は怖い。熱くならないうちに、小さな丸いキャンドルの縁を指で摘んだまま、そっとグラスに沈める。炎が大きくなり、揺れながら蝋を溶かしていく様子をじっと見つめる。デスクに置いたラップトップからは、イブニングジャズと題したピアノのメロディーが流れている。ようやく気持ちが落ち着いていてきたようだ。でももう少しの間、何も考えずにこうしてキャンドルの炎を眺めていよう。

 やっぱり盲点をつかれた。勉強不足の自分が浮き彫りになり、動揺を隠せなかった。それに比べて、木月さんはベテランらしい対応を発揮していた。木月さんのおかげで助かった。でも、悔しかった。

 新しいチームで臨んだ昨日のプレゼン。企画から構成、資料作りまで順調だった。これはきっと、参加者を魅了するものができるだろう、自信すらあった。ここまで辿り着くまでに、様々な案を出し合ってはボツになってきた。そして、ようやく見つけた、自分たちが今できること、だった。確かに、プレゼン自体は成功したと言っていいだろう。でも私の中で、自分の能力の足りなさを感じて、気落ちしてしまった。いや、チームみんなが、それぞれできる役割を果たせたじゃないか。反省点はまた次回に生かせばいい、そう言い聞かせて、落ち着いたはずだった。しかし、今朝出社すると一通のメールがまた、私をモヤモヤとした薄暗い世界へと引っ張っていった。

 それは、木月さんから転送された、山下支配人からのメールだった。

「あまり新鮮さに欠ける内容の中、やはり木月さんのプレゼンはさすがにプロ、という内容でした。みんなもそう思ったことでしょう」

 えっ、なにこれ。なんでこんなメールをわざわざ私たちに送ってくるんだろう。もともとプレゼンの内容は、親しみやすいありあふれた内容の中に、プロらしい解説を挟むことで構成していた。そこは木月さんの得意分野だったから、木月さんから説明してもらったのだ。結果的に、支配人の目には、木月さん、さすがだね、と映ったというのか。なんということだ。やさぐれた気持ちのまま、ミーティングに招集され、その後一日が終わった。

 きっと悪気があってこのメールを書いたのではないだろう、支配人もプレゼンを高評価してくれた、という意味合いから木月さんもメールを転送したのだろう、そうわかってはいても、気持ちは落ち込むばかり。

「全然落ち込むことじゃないよ、きちんと構成まとめて、資料作ってやり遂げただけ、すごいことだよ」

 南は言ってくれた。その言葉には救われた。しかし、今日は一日心のモヤモヤは晴れなかった。

 蝋は完全に溶けて、液体状になっている。そういえば、炎も三つの部分から成り立っている。外炎、内炎、炎心。そっか、炎もチームで成り立っているのか。チームのみんながそれぞれ役割を果たして、私の心を癒してくれる炎になっている。私の目に入ってくるのは、まずやはり大きく目立って見える外炎だけど、実際外炎だけではキャンドルに火は灯らない。

 ふっと笑顔になる。何をくだらないことで落ち込んでいたのか。

「キャンドルいい香りだね」

 お風呂上がりの夫が言う。

「うん、緑色のキャンドル炊いているんだけど、そういえば緑ってなんの香りだっけ?」
「緑はりんごだよ。りんごの香りって地味だけどね」

 そうか、このほんのり甘い香りはりんごの香りだったのか。いつからか、うちでは毎朝りんごを食べるのが習慣になっていた。何かの情報番組で、りんごは体に良い、と言うことを聞いてからだろう。でも、私はりんごはあまり好物ではなかった。みかんやイチゴなどと比べると、水分が少なく、食べるのに時間がかかり、一度にあまりたくさんは食べられない。よし、りんごを食べるぞ、とどこか構えてしまうところがあった。でも、毎日習慣にして食べ続けていると、りんごを食べることも当たり前になってきて、りんごが好きになっていた。そんなものなのだ。

 慣れないプレゼンで、ちょっと気持ちが敏感になりすぎていたようだ。また次のプレゼンに向けた会議の出席依頼、明日の朝イチで返事をしなくては。

 もう一度じっくり炎を見つめる。その時、南からLINEのメッセージが届いた。

「プレゼンの録画、見たよ! すごく良くできてて、驚いたよ! 本当にお疲れ様でした」

 目頭が熱くなる。

 相変わらずゆらゆら揺れている炎に息を吹きかけると、ほのかに甘いりんごの残り香が部屋に充満し、炎は消えていった。

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