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自己観察から見えたもの 6

自己観察から見えたもの

『土は自分を守る盾だった』

始まりは幼い頃の経験で、土グループとなり土しぐさをすることで自分を守っていた。
土台が積み上がらず、自信が持てず、自分の周りの世界は誰も私を助けてくれないと思い込んでしまい、どうにかそこを切り抜けるために、どうかこれ以上痛めつけられないために、世界という嫌なことをしてくるものへの対策が土しぐさだったのだと思う。

幼い頃はなんとかそれで生き抜いてきた。輪を乱さず、その輪が円滑に進むように自分のポジションを当てはめていく。学校生活の中でも生徒会や学級委員やらあまり周りがやりたがらないことを「じゃあ私が」と手を挙げてきた。大人からは好評で褒められることも多かった。それで嬉しいと感じている時もあった。

大人になってからも自分がいる場はそうしてうまく回っていっていたと思う。しかし、自分の心はどんどん「苦しい」と強く訴えるようになっていった。

子どもを産んで、仕事も家庭も、他人をケアすることが多かった。それはそれで自分の存在意義を見出していたけれど、自分の心はどんどん「自信を持ちたい。自分のやりたいことをやりたい。」と訴えていたのだと今は思う。

自分のやりたいことをやりたい。その思いを満たすのは、イラストのオンラインコミュニティに入ったことが転機となった。

昔から好きで、やりたかった「絵を描くこと」
子どもができたことや年齢などで、幼い頃からの夢だった少女漫画家になることは諦めてしまった。それから絵を描く機会も減っていたけれど、ずっと「絵を描きたいな」と思い続けていた。
思い続けていたけれど、実際仕事と家事育児を回し続ける生活にイラストを描く余裕を作り出せなかった。

思い切ってイラストのオンラインコミュニティに入ったことで、生活が変わった。
絵を描くのがとにかく楽しい。余裕はないが、仕事と家事育児の隙間時間をかき集めて毎日絵を描いた。描いた絵を見てもらえる、「いいね!」と言ってもらえる。対等な立場で、ジャッジされず、ありのままの私でいられる場所。
そして、絵を描いている間は、誰か他人のためではなく自分自身のための時間だった。

そうしている中で、身近にプロとして絵を描く仕事をしている友達がいる状況になった。
仕事として絵を描く、というのは少女漫画家を目指していた私にとってとても憧れのものでキラキラしたものでうっとりするような夢のような世界だった。「そんなふうになれたら、もうずっと幸せなんだろうなぁ」と。

けれど、現実はそんなに甘くはない。

みんなヒーヒー言いながら絵を描いている。
クライアントさんと仕事していく中での苦悩、自分ができることとできないことに苦悩しつつも必死で学び、必死でアウトプットしていく姿。

私が夢見ていた「絵を仕事にする」というものの現実は、甘くキラキラしてうっとりするような砂糖菓子ではなく、仕事!家事育児!どうやって回すか!?生活がかかっている!!という普段私がすごしているものと遜色ない現実だった。

私はとても夢見がちだが、現実をまっすぐ生きるコミュニティの友人から「どこにいっても地獄は地獄だよ」という言葉をもらった。

私が今まで土しぐさで生き抜いてきた現実も地獄。
絵を描くことを仕事にしても地獄。
どっちにしても地獄。




なら、私は、絵を描く方に行きたい!!!!

初めて、自分から自分のやりたいことを素直に出せた瞬間だったかもしれない。
私は自分の人生のハンドルを、絵を描く方!!!に切った。

少しずつ自分の「これがやりたい!」という『欲』を素直に認めることで、土という自分を守っていた盾を置くことができるようになっていった。
振り返ってみると、自己観察を始める以前から少しずつ、私の中で変化は起きていたようだ。



『自分の感情を見る』

ポッドキャスト、となりの雑談のプール理論の話(エピソード31「サクちゃんのプール理論」、エピソード33「プール理論リターンズ」)を聞くと、やりたいことは自分でどんどんやり始めちゃえば良いんだよね、と思う。
プールの水は自分の好きなことだったり、ワクワクすることだったりする。そして、これは絶対に嫌!というものは省く。

自己観察をしていく中で、私は自分の感情を向き合う練習をしている。
自分が今、何を感じているのか。それは楽しいのか、ワクワクするのか、それとも不安なのか、嫌なのか。
自分が何を感じているのか、特に日常のふとした瞬間の時、ずっと見ないようにしてきてしまっていたため、自分が今どう感じているのかわからないことが多い。
それは土しぐさによって、自分の感情ではなく「虚像の他人」の気持ちを優先してきてしまったからだ。

そこから脱却するために、自分の感情を見るようにしていると、嬉しい!楽しい!ではなく、「これはこうするべきだから」と、やるべきことをこなし、スッキリさせていることが多いなぁと思った。

やるべきことは、ほっとくと「あぁ、早くやらなきゃ…」と嫌な気持ちで気になるもの。ストレスになるのがわかるので、さっさとやってスッキリしてしまうのが良いと思っている。
しかし、やるべきことばかりやっていると、どんどんそればかりになってしまって、自分が楽しい!と思えることが後回しになってしまう。
まずはやりたい!楽しい!こと、そしてこれは絶対嫌だ!と思うことを見つめること、知ること。これは絶対嫌だ!はやらないという選択をすることが大事だなと思った。土しぐさをしていた私からは、なかなか勇気のいる選択だ。



『白黒の世界とグラデーションの世界』

友達から「もよちゃんは世界の見え方が白か!黒か!ってはっきり分かれてるよね」と言われた。
そう言われたけれど、そんな視点で物事を見たことがなかったので、そうかなぁ?と思いつつ、考えてみると確かに私は今まで「これで正解か?間違っていないか?」という正解という白を探して、白以外は黒!という世界の見方をしてきていたかも!と思った。

私が白黒ならその友達はどういう視点で物事を見ているのだろう?と思い聞いてみた。
「私はグラデーションで物事を見ているよ。曖昧な、余白部分をあえて残す。難しいけどね。」と言っていた。

確かに世の中は白黒で決められるものの方が少ない。グラデーションの世界だ。そんな世界で白黒の見方をしていると無理が生じる。
たとえ正解がわからなくても「こうであるはず!こうでないとダメだ!」と決めつけず、「今はこれでいいか」と手放せる柔軟さがあるのはいいなぁと思った。

グラデーションで物事を見れないだろうか?新しい視点を試してみたくなったけれど、これがとても難しかった。
すぐにいつもの癖で「この場でこういうことをやってるのは大丈夫だろうか?」「もっとこうしたほうがいいんじゃないだろうか」と正解を探してソワソワしてしまう。
「グラデーションで見るぞ!」と思っているのに、実際自分がなかなかできないのはどうしてだろう?と考えてみた。

それは、白・黒はっきり分かれている方が自分がどういう立場を演じればいいか分かりやすいから…かもしれないと思った。
グラデーションだと自分がどういう立場でいればいいのか分からなくて不安。そして焦る。

自分は不安だし焦っているけど、周りの人は私から見ると「ちゃんとして見える」から、焦って不安であわあわしているのは自分だけだ。自分が「おかしい人」みたいに思えてしまって、「ちゃんとしなきゃ!」という思考になる。

グラデーションで良いのに、「ちゃんとしなきゃ!」という、こうでなくちゃを自分の中で求めてしまっている。白黒の思考。それは私が「ちゃんと見える虚像の他人」を意識しているからで。
その虚像の他人を意識した「ちゃんとした自分」を演じてしまってよくわからないことになってしまい、わーーーっと苦しくなってしまう。

私から見える他人は、「ちゃんとして見える」けれど、実際の他人も実はあわあわしているけど表情に出していないだけだったり、逆に、実は内心るんるんだったり、悲しいことがあったり、きっと色々なはずなのだ。
推し量れないものを、「私にはこう見える」と決めつけて白黒にして世界を見てる。
そこに気付いた。
グラデーションで物事を見るのはまだまだ難しいけれど、白黒でなきゃいけない!というそっちへの決めつけは少しずつ緩めていこうと思った。


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