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千利休生誕500年

今朝の産経新聞一面。
まぁ、こんな分析やったら、何百年経ってもわかりまへんな。
つまり、利休個人に絞って彼を中心にしたものの考え方やったらあかんということです。
千利休というのはどういう人で、どんな使命をもってこの世に出て来たのか。茶の湯者というのは一面でしかないと私は想います。
私見では、『いわゆる切腹』の原因は朝鮮征伐に反対したことでしょうね。お吟の話はウソですし。『もずやまでもが・・』との利休が書いたとされる書面が残っていて、萬代屋宗安が朝鮮征伐で馬廻衆を務め、多くの船を提供したことからもそれがうかがえます。これも私見ですが、これは利休の更迭であって切腹はさせられていないと私は想っています。どこかに隠居したんでしょう。しかし、彼の影響力から言って、秀吉は利休を居ないことにしたかった。堺衆の力ですもん、なんぼでも逃がせますから。それで秀吉も堺に帰らせたんでしょう。
利休が何者かですが、普通に考えたら、同族以外の結婚がなかった当時のこと、土師氏でしょう。だから同じ土師氏の菅原道真を尊敬し、梅紋を着けたんでしょう。ですから、当然、一向宗との深い関わりも持っていたはずです。即ち、利休が目指したもの、そして彼の使命は『分け隔てのない社会』であったはずで、それは北野大茶会にも表現されています。
であるのに、信長も秀吉もそれを裏切った。彼らは『分け隔ての無い社会』をつくるどころか、権力者の座についたからです。
では、何故、関ヶ原の戦いで圧倒的有利とされていた西軍が敗北したのか。西軍には宗安がフィクサーとして着いていました。私は江戸という街の性質がその謎を解いてくれていると感じています。浅草寺にまつられているのは土師氏。最近宮司さんも土師を再び名乗ったそうですね。
つまり、江戸は『分け隔ての無い』理想都市として建設されたのです。土師氏がなぜそれを望んだか。それは土師氏と藤原氏の攻防をひもとけば解ります。
千利休生誕500年だそうですが、私達の先祖がなにを理想とし、求めていたのか、あらためて考えて見たいと思います。

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