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言葉になるまでの散文

口に出さなかった思いはどこに行くのか。
書き残せなかった気持ちはどこに行くのか。
言葉を纏えなかった感情はどこへ行くのか。

それは自由に姿形を変える水槽に溜められる。
水槽は大きくなり全てを受け入れる時もあれば,
小さくなりこぼしてしまう時もある。
そんな水槽の中身は時折何かの拍子で飛び出すことや,
熟れて素敵に色付き掬い上げられることもある。
この巡りあわせの恩恵に与れなかったものたちは,
次第に色を失い底に折り重なってゆく。
何千年も続けていればついには化石や石油になるんだろうか。

実際はそうなる前に水槽に不都合が出てくるのは明白なのでどうにかしないといけない。
だから折を見て穴を埋め,形を整え,色を付けてから水槽の外に出してやる。
例え原型を留めていなくても言葉を着せて放ってやる。
そう,これは供養なのだ。
死んでしまったものに別の形を与えて自分の外に放つのだから供養以外の何物でもない。
ちょうど灯りや煙に帰らぬ人を重ねるように。

たまにnoteを書くときこういった気分になるときがある。
日記とかそういった自分の中で完結する形でなく,何故noteで公開するという選択をしているのかなんて思ったこともあった。
でもこれは供養なのだから,言葉にするという行為以上に外に放つ,公開するという行為が重要なんだと気づいた。
例え誰の目に触れなかったとしても,自分の手を離れたという事実が大事なのだ。
だから誰かの中にしかないものを言葉にして世に放つということはとても尊い行為だと思う。
それは自分の奥底と向き合った証でもあるから。

そんなことを考えているから,私は会話の中で相手が言葉を選んでいる時間というものが好きだ。
言葉に詰まる瞬間,その人の中でどんなことが起こっているのか想像するのが好きだ。
それは紛れもなくその人の心の動きを外に出そうとしている瞬間なのだから。

一方借り物の言葉で,声を高々に上げる人もいる。
良い悪いの話はできないが,私はそういった言葉を好きになれない。
どれだけ耳障りのいい借り物の言葉を並べても響きはしない。
人間誰しも楽を選ぶものだから,借り物の言葉に頼りたくなる。
けれども一億二千万人もの人が一つの言語を使うのだから,言葉と自分の間にギャップがあるのは当然のこと。
大事なのはこのギャップがあるということを理解した上で言葉を選ぶということだと思う。
そしてギャップを埋めていく行為が世で言われる「感性を磨く」ということなのだろう。
それは実にもどかしいし苦労を伴う行為だけれども,言葉を世に放つ上では避けてはいけないと思う。

自分の一言一句にここまで気を配るのは大変だけれども,
せめて言葉を選ぶ時間があるときはこうでありたい。

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