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きっと大丈夫


2年付き合った彼氏と別れて2日後にわたしは違う人とお付き合いをはじめた。でも2ヶ月で別れを決めた。

激動の日々を過ごしている数ヶ月。

二度と同じ気持ちを味わいたくないし、まわりにも二度と同じことはしたくない。元元彼と別れたときに、そう強く思った。

はじめて自分から行動してよくなるために精神科に行き、いつかいつかと先延ばしにしていた生理不順とPMSをよくするために産婦人科を予約した。

引っ越しをしているため、久しぶりに行った主治医のもとでは紹介状をもらった。封筒からうっすら見える病名には「境界性パーソナリティ障害」。

やっぱりか、と思った。同時にショックも受けた。自覚はあるようでない。わかるけれどわからない。

転院先の先生はわたしの祖母と同じ歳のおじいちゃん先生。おっとりゆったり話を聞いてくれる人で、腕の傷跡を撫でて、「自分のこと、大切にね。」と言ってくれる人。

心理検査では、抑うつ的であること、自己評価が低いので他人と比べがちであること、他者と比較してささいなことで怒りが湧いてその衝動が抑えられないこと、自分の殻に篭もりがちだが社会とのつながりも求めていること、気分にムラがあること、依存しやすい性格であること、などがわかった。

わかったところで、と正直思っていたけれど、わかったからこそ、自分にその感情が湧いてきたら、ああそういう性格だし今はしかたないよ、と思えるようになった。無意味に自分を卑下したり、自己嫌悪になることはだいぶ減ったのではないかと思う。

同時に、怒りや寂しさの感情が抑えられなくなったときには薬を飲むことになった。毎度ささいなことでコントロールができなくなる。泣きたくなるくらいに嫌になりながら、薬を飲むこともある。こんなことで、と思う。それでも薬を飲むことでコントロールして、投げやりにならずに話ができるのなら、そのほうがずっといい。

わたしは少しずつだけれど、よくなっている。

元元彼も元彼もわたしのこんな性格のことを大きな目と広い心で受け止めてくれていたと思う。それに、2人ともいろんなことを考えたり思ったりするきっかけになっている。出会ってくれたことに感謝している。

比べるのは違うとは思いながら2人付き合ってみて、わたしは元元彼が好きだということに気付いてしまった。

わたしがわたしらしく、自由に、考えができない場所は息苦しいし、好きだという気持ちに自信が持てない関係はとてもつらいな、と思った。
わたしがわたしらしくいるってことは、いまいちまだわかってないけれど、なんとなく、我慢しないってことな気がする。
好きなものを好きって言ったり、テンションがあがったときにワーワー騒いだり、おいしいものをおいしい!っていっぱい食べたり、暗くてしんどい感情をそのまま素直に言えたりすることだと思う。

きっと、元元彼からしたら、ミホちゃんはずっと我慢してる、何も言ってない、って感じだと思うけど。

それがもっとひどかった。ずっと我慢してた。

わたしはわたしの意見を言ったときに、同じか、それを超える熱量で意見をくれる元元彼が好きだったんだ、と気付いた。

何を言ってもおうむ返しのように返ってくる文章、中身のない、意味のないような会話、すべてがつまらなくて、でもそんなことも言えなくて、好きか?と問われたらそうじゃないのに、向こうから好きだよ、と言われたら、わたしもだよ、と言わざるを得なくて、ずっとずっと自分が信じれなくて、そんなんだから、相手も信じれなくて、しんどかった。

思考がぐるぐるして、ボロボロになっていくのが手にとるようにわかった。これではダメだ、と別れを決意した。

ある人には「自分のことを守る行動ができててすごいしえらいよ」と言われた。いまいちそうなのかな?と思っていたけれど、確かにそうかもしれないと思う。わたしはわたしのことを1番に考えながら生活ができている。

わたしの理想を押し付けてるだけだ!とか、理想が高すぎる!とか、相手がしんどくなっちゃうよ、とかそんなことはわたしだって思う。でもいつだってそれに応えてくれていたのは元元彼だった。

彼は偉大だ。わたしにとってターニングポイントの存在であり、未だに好きな人は彼1人な気がしてしまう。恋愛において、この人しかいない、となるのは違うかもしれないし、いろんな世界を知るべきだとは思うけれど。

それでもわたしは元元彼が好きです。

散々なことを言ったし、わたしもひどい人だったと思う。境界性パーソナリティ障害の代名詞でもある、試し行動はとにかくひどかったし、自己嫌悪も自傷行為も本当にひどかった。自分も傷つけたけど、まわりだって十分に傷つけた自覚はある。

昔の主治医には長い目で向き合っていきなさい、と言われていた。わたしの中で今1番コントロールができない怒りと寂しさが上手に扱えるようになるにはあと何年かかるだろう、15年とか20年とか、きっとそれくらいかかる。

いい女になりたい。いい女ってどんな?と言う論点で友人と話をしたことがあるけれど、自分で自分のことを幸せにできる人かな、とか、あいさつができることかな、とか、ね。

でもね、最近思うのは、幸せって、当たり前にある当たり前が、何気ないことが、幸せなんだよってことに気付けるかどうかなのかもしれない、ってこと。
わたしは元彼たちや友人、いろんな環境の中で生きてるけど、そういう人たちって、当たり前にいるようで全然そんなことないし、おいしくごはんが食べれてることだって、自分が仕事に行って稼がなきゃ無理なことだし、そもそも仕事があることがありがたいし…みたいな。
そんな「当たり前」が幸せなんだよ、ってことに、気付いたときがあって、それからはなんだか少しずつだけど、前向きになれている気がする。

こんなことを言いながら、まだまだ落ち込んだり、日々しんどくて生活ができないことがあったり、そんなことの繰り返しだけど、できていることも増えてきている。

日々を続けましょう、何気ない毎日すべてが愛おしくなるように、大事にしていきたい。悩んだり、塞ぎ込んだり、それでもそれがわたしだし、どうしたってどうにもならないなら仕方がないと思おう。確実に前には進んでる。だからきっと大丈夫。

わたしの文章で何かできそうなことがあれば、全力で力になりたいと思っています。