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リアルとオンライン

小さな時から日記を書くのが好きだった。思い出してみると作文もとても好きだった。思ったことをつらつらと書くのが大好きだ。多分これは今も同じ。なんだかんだ文字を綴れた日は救われたような気持ちになる。

アイキャッチ画像の写真は小学校1年生の時の冬休みの課題だった。いまだに覚えている優しい先生がとても褒めてくれた。自分が見た世界をありのまま描いている部分は珍しく、自分の言葉を素直に褒められる。たいへんよくできましたの輝くようなシールがとても嬉しい。私も同じ気持ちだよ、と自分の中の小さな子供を褒めてあげる。あと、ひたすら文体が面白くて、起承転結もなく、文字に起こす必要を今では感じなくなってしまった事柄(具合が悪くてゲボを吐いて悲しかった、妹が遊びに行く電車の中で泣いた、父が病欠した)などを感情と共に書いている。自慰行為のような表現になってしまって気持ち悪いが、とても良くできていると思う。ていうかウケる。涙が出るほど笑ってしまう、だって情景がそのまま浮かぶもの。

あとは天気の表現がありのままでとても好きだ。晴れた日には「晴れ」ではなく「あおぞら」と書いている。それもとても良い。

可愛い可愛い5歳になった甥っ子から手紙が来る。私の姉である彼の母が代筆した手紙も同じ感覚で受け取ってしまう。彼が考えている世界が屈託のない言葉で選ばれ書かれる。どうしてこの繋がりを思い浮かぶのだろうと思ってしまう文脈が本当に素晴らしいと思う。そして私の甥っ子は頭が良いので、言葉遣いが秀逸だ。可愛い、面白い、いつ見ても嬉しい気持ちになってしまう。昨日届いた手紙には「だいすきでする。」と書いてあった。素晴らしい言葉づかいだ。気持ちがとっても伝わってくる。

現在はリアルとオンラインが混ざり合った毎日だ。でも5歳の甥っ子たちと遊んでいた日々を思い出すと、ほとんどがリアルの中で世界が動く。オンラインの世界ってなんなのだろう。色々な人の、普通では絶対に巡り会えなかった人々の日常や生活が情報端末から見ることができる。そこにいるのにそこにいないように脳みそが感じてしまう、不思議な存在から送られる情報。正直それがAIでも宇宙人でも私たちにはそれを判断する能力や気力、時間がない。だからと言って無責任に言葉を発していいというわけではない理屈はよくわかっている。けれど、情報を送ってくる、もしくは発信してくる相手に関してはひたすらに単純化して理解しようとしている。なぜだろう。

前の投稿の画像に選んだ、札幌の新しい水族館には可愛いそして洗練された知性のある女性と遊びに行った。彼女のことは心から応援していて、さらにどんどん夢を叶えていて、それゆえの大変さをこなしていて尊敬するばかりだ。彼女と知り合ったのもInstagramというオンラインのツールだった。けれど話して会って色々な言葉を交わしていくうちに、私は知識が深く、実力があり、そしてとても心優しい彼女のことが大好きになった。

オンラインだけの関係性でも、そのくらい近く感じられる人はいる。でも一度会ってみると、その人の心の機微や同じ人間であること、日々どのようなことを考えているのか、などを実際に感じられ、自分と出会ってくれた運命に感謝できるなど、とても心に良い感情を得られると思う。特に私は蟹座なので、自分の身内だと距離を近く感じると、より共感性が高くなる。

にしてもやはり人間は、オンラインだけでは生きていけないのだ、と思う。そこだけで何もかも理解したい、したつもりになる、ということはきっとこれからも不可能だ。もちろん、その特性を理解した上で、自分にとってのパーソナルスペース、セーフティースペース、お友達や仲間との繋がりを再確認する場所としてインターネットが存在するのかもしれない、と思う。自分はどうしても、そこの境界線を揺らぐような毎日になってしまうので、リアルの時間や生活もきちんとバランスに組み入れて生きていけたら、と思う。

今日はお休み。ゆっくりしながらリアルの時間でフランス語を勉強し、またインプットをする1日にしたい。今日は100分de名著の林芙美子の放浪記を見ている。とても面白い。日記文学は読むのもとても楽しいものだ。そして女性の扱い方が今も昔も変わっていなくて胸糞悪い、面白い。