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映画の季節

最近、とてもよく映画を見ている。そして、せっかく文字を書けるのだから、とfilmarksにも駄文を垂れ流している。観るだけだったものを自分の言葉にするのは悪くないことだと思っている。

今日の画像は先日、大好きなお友達さんと行ったAOAO Sapporoという水族館の一部。観た方ならわかると思うが、トゥルーマン・ショーのようでとても良かった。いつまでもここにいたいと思ってしまう不思議さがあった。

私はINFP-Tだ。何度か行っているのて一度提唱者になったりもしたが、最近また戻っている。自分だと思った文章が分析として書かれているのって、嫌なところもあるが、快感でもある。不思議だ。以前から、自分の中でなぜかわからないけれど行ってしまうことに「知らない人の意見や感想や文章をただひたすらに読み続けてしまう」という癖がある。それがINFP-Tの個性(として書かれていたときは、驚いた。

物事を白黒つけたくないので、色々な意見を吸収したい。私はここを良いと思った、ということも心の中に浮かべながら、さまざまな人の個性ある言葉を吸収する。とても楽しい時間でもあり、しんどい時は、ストレスのタネになったりもする。でも何より自分が面白いと思った映画に多くの良い感想が集まっていると、全く関係のない一般の視聴者の一人なのに、なぜか嬉しい気持ちになったりする。

仲介者は人間性の深みについて心の底から興味があります。根っから内省的な上に、自分の思考と感情をものすごく的確に把握できる人たちで、周囲の人についても理解を深めたいと強く望みます。断定的判断を避ける気質があり、また、慈悲深い性分の持ち主で、どんな時でも他の人の話に耳を傾けるでしょう。「仲介者になぐさめてほしい」と誰かが思っていたり、誰かに心を打ち明けられたりしたら、相手の話を聞き、力になれることを光栄に感じるでしょう。

仲介者の性格

ここだ、私が自分だと思う性格の一部分が最初に書かれていた時は驚き、また理解者を得たようで嬉しかった。今の仕事もこの共感力を使うという仕事とともになんとか続けられているように思う。わかります、そのあなたの辛さ。わかります、そういうところ困りますよね、と嘘偽りなく本当に言えるからこそ、自分らしく仕事を続けられてきたように思う。どのような仕事をしているかはきっと以前の記事を読んでいただけたらわかってもらえるかもしれない。

私の母はある時からずっと映画が好きだ。中でも洋画が好きで、いつも色々な映画を見ている人だ。そして時々この人は映画より俳優を見ているのでは?というくらい「あ、この人これに出てたんだ」とか「この人の若い時こんなのに出てたんだ!」などなど、俳優に関する話をされる。ついていける人ならきっと楽しいのだろうけれど、俳優の名前を覚えられないので、ほぉ~と流してしまう。ごめん。

最近はカラー・パープルを見た。最近上映されたミュージカルをいつか観るためだ。にしても名作中の名作だった。何度も涙を流し、最後は優しい気持ちになった。また何度でもみたいと思える映画に出会えた時の幸せは、どのように言葉にしたら良いのだろう。

今日は食後にアカデミー賞の授賞式の動画を二人でたくさん見た。母はピーキーブラインダーズ(だったかな)で見たキリアン・マーフィーが主演男優賞を取っていることを喜んでいたようだった。オッペンハイマーはどちらにせよ観なければならないと思っている。日本人としてなどといった大義名分ではなく、ただ単に人間として見るべきだと自分に課している。

私がキュンとしたのは主演女優賞を獲得したエマ・ストーンのスピーチ。彼女があのくらい感動して少し取り乱しているのを初めてみた。ドレスが壊れちゃったの、と言っている姿のなんとキュートなことか・・これが萌えか・・。哀れなるものたちも見ます。怖いけど、観なければならない物語な気がする。

にしても、個人的にはBarbieにもう少し賞を取って欲しかったと思ってしまう。ただあまりにも女性を優先しすぎていて、ニュートラルな賞を与えるには疑問が浮かぶという部分にも同感する。ただBarbieは良い、全世界の人に見てほしい、とても良い映画だ。ちなみにI’m just Ken.のライアン・ゴズリングもとても可愛かった。

申し訳ないが、私は実写の日本映画が苦手だ、独特の暗い雰囲気(が多い)し、何かとステレオタイプに女性を描くし、セリフの滑舌が悪く聞き取りにくい人が多いし、共感性周知に苛まれて、ポスターの時点で見たくないと思ってしまう。なのでとても偏った感想と偏った感覚で映画を楽しんでいる。それでいいのか、といつも自分を責めながら、これからも洋画をひたすらに消費していく。そして思ったことをそのまま書いていく。それしかできない。