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別の視点で見ること

今日も無事、一日が終わった。昨日の夜に記事を書いた後、少し眠れなくなり、悪い癖でTwitterを開いたら、アカデミー賞のいわゆる炎上についての投稿が目についた。とある白人俳優たちのアジア人に対する態度がひどい、というもの。色々な立場の感情の人の言葉を、泳ぐように読んでいくと、まるで自分の言葉のように脳が記憶する、不思議だ。時々私には本当の感情や自分ならではの言葉がどのくらいあるのだろう、と考えてしまう。

彼らの行動はどのような偶然や思惑があったにせよ、アジア人にとっては心を傷つけられる瞬間で、マイクロアグレッションがどれほど人を傷つけるか、ということを浮き彫りにしたように感じる。これも誰かから借りた言葉だが「外国にいた時の自分のトラウマを思い出した」という感覚。外国に行ったら大体の人に「ニーハオ」と言われる(これを嫌だと思うのも、日本人の歪んだ中国嫌いがあるようで私は良くないと思うが)とか、そこにいるのにいないものとして扱われるとか。

確かに、そうかもしれない、と思う。外国の文化にいると受け入れられているように感じるお花畑な脳内も自分には存在するが、やっぱりどこへ行っても、私は見た目からアジア人で、その見た目で判断されてしまう。フランスのスーパーに行って、ずっと警備員につけられ、にらまれたのを思い出す。日本にいたっていつも心が疲弊しているのに、外国にいてもなおさらそれは変わらないのではないか。いつでも、人の目を気にしているけれど、いるけれどいないものとして扱われるなんて、より酷な気もしてくる。そんな時それはおかしい、やめるべきだと言葉を発することはとても大切な気がしてくる。いつだって受け身で傷つきすぎてしまうから、私にはできない。

今日は久しぶりのフランス語だった。私にも自分で語りたいという言葉や思いはあると感じる瞬間がフランス語の時間には顔を出す。そして先生と話していると、もっと心の機微に触れるような言葉や表現を教わって、とても楽しいと感じる。なぜか日本語だととにかくネガティブになりがちな言葉の並びも、フランス語の順番になると希望を綴るような並びが出てくる。日本語と違って主語が必ず必要で、一人称や二人称に多様なヴァリエーションがないから、という考えを大尊敬するある先生の本から学んだ。

心のどこかで自分ではない自分、マーゴットロビーのようなステレオティピカルな西洋の顔立ちとスタイルで生きたかった、そうではない自分への劣等感がいつも自分の中に流れている。映画を見て、音楽を聴いて、とにかく西洋の文化を流し込み、劣等感でたっぷりの自分を消しながら生きてしまう。今回のことも、私にとっては自分の劣等感をさらに深くすることとなった。なんだかこう考えてみるといつものことで、もうどうでもよくなってしまう。きっと私はこれからも白人至上主義の風潮が終わらないハリウッド映画や音楽をいいなぁいいなぁとひたすらに消費していくのだろう。だって何を願ったって一生叶わない、こんなちっぽけで今にも消えそうな不安定な世界では、もう何も希望を持てないもの。

ああ、金髪碧眼のお姫様に生まれたかった。