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年賀状

他に書いている下書きがあったのだけど、この話題を書けるのはせいぜい今日までかなと思い、先に投稿しておく。

[年賀状離れ]が進んでいるそうだ。面倒だから、LINEやSNSで済むから、高齢のため、節約のため。理由は様々あるらしいが、自分も例外ではない。

母が生きていた頃、母の代わりに年賀状を作成して投函するのは私の役目だった。パソコンを使っていたし(母からの注文の多さに辟易していたが)苦ではなかった。母の肢体不自由が進み、筆が持てなくなったある年に本人の意思表示のもと「本年限りとさせていただきます」の年賀状を出した。一年後に訃報通知を受け取った母の友人は、心のどこかで納得しただろう。

自分はというと、3年前に介護のために引っ越しをしたタイミングまでは転居通知も兼ねて出していたのだが、2年前に母が亡くなり、喪中なのをいいことにそれきり辞めてしまった。母の死を周知することに抵抗があり、喪中ハガキすらも作らなかった。非常識なのは承知の上だが、私の友人に母の死をわざわざ知らせるのが「なんだかとても迷惑なこと」のような気がしたのだ。

今では年賀状をくれた人に返事を書くという有様で、返信は元日のうちに書いてはいるものの、枚数も年々減り、数少ない友人には本当に申し訳ないと思う。

年末年始は[家族]や[家庭]を否応なく突きつけられる気がするから苦手だ。ひととおりの正月感を出してはいるものの、親戚もおらず、挨拶回りもしない。配偶者の親族に挨拶をする、嫁業務をこなしていた日々が懐かしい。

LINEやSNSで済むと思いつつ、年が明けて自分から手当たり次第にLINEするわけでもなく、積極的に[あけおめ投稿]をするわけでもない。新しく知り合ったとしても、昔のように住所や電話番号を交換する時代でもなくなってしまった。時間と費用をかけて一枚一枚に手書きで文章を書き、相手のことを思う時間を捻出する、年賀状という文化はとても贅沢なものなのだなあ。

きっと私の友人は、私のことを思い出しながら年賀状を書いてくれたのだろう。自分から遠ざけてきたくせに、今になって年賀状が減ったのを寂しいと思うなんて、本当に我儘だ。手紙や、プレゼントや、LINEなどのメールは、その時その瞬間、自分のことを考えてくれたと思うと、やはり有難いし嬉しいと思う。私は相手のことを考えてそうするのに、どうして自分にはそれが適用されていると思えないのだろう。自分からもらっても嬉しくないだろうとか、自分にはそんな価値などないとか、考えてしまうんだろう。

来年は数年前の住所録をひっぱりだして旧友に年賀状を出してみようかと思いつつ、しかし相手が[年賀状離れ]をしていた場合は「今更なんだこいつ」「住所録から消しちゃったよ、返事出さなきゃじゃん」と思われるかもしれず、決心がつかずにいる。今年の手帳の12月予定に[年賀状作成]と書いてみよう。

コロナ騒ぎで、会いたい人に気軽に会いたいと言えない。同窓会のように複数で集まることもできない。[一方通行で不特定多数に向けたSNSでのご挨拶]だけではなく、一対一の、言葉のやりとりを大切にしたいものだと思う。

思考を整理して[ひとまとめの文章]にする練習をしています。気になった歌詞、言葉、出来事など。