教育は属人的なものなのか?

 MQ代表社員のぴろ@教育大学大学院です。ちょっとネタ切れ気味でさぼってしまいました。何気にフォロアーが増えて、皆様に読んでいただいているみたいで…恐縮です。なにせ30年前に通った大学・大学院では教職課程はおろか、教育学のきの字も学んでいない人間が、授業で聞きかじった「教育について」をつらつらと書いているだけなので、皆様のお目にかなっているのでしょうか…。

 「教育ポートフォリオを考える」の授業の中で、愛知県立東浦町立緒川小学校の1980年代における指導の個別化と学習の個性化の取り組みの紹介がありました。この小学校はクラスルームにたまり空間(アルコーブ)をもける教室重視の建築計画として、一級建築士の学科試験ではかなり高い頻度で出題される、建築学徒にとっても非常になじみの高い学校建築です。特徴的な学習プログラム、教室空間ということで卒業生の大学進学率も高くなったとの結果が出ているとのことでしたが、一方で、他の近隣の学校との教育内容の差が出てくると思われるのですが、それは「公教育」の役割として、本当に良いことなのか、疑問に感じるところもありました。GIGAスクールが始まり、複数の小・中学校においてもICTを用いた「個別最適・協働的な学び」の取り組みが進んでいるところもあり、その流れは大変望ましいと思われるのですが、一方で属人的な取り組みに終わってしまわないかという心配もあります。今後どのようにすれば、この流れを進めていけるのでしょうか。

 また、現在、文部科学省が進めようとしている「個別最適・協働的な学び」に対して、さらに過重な負担を強いられるのでは?と多くの教員は危惧を抱いていると思われます。障害者差別解消法によって求められた教育現場での「合理的配慮」においても同様に、「合理的配慮は絶対守らなければならないのか?」と教育委員会の説明に対し、質疑を返した教員も多かったと聞きます。「個別最適・協働的な学び」も「合理的配慮」も教員・児童生徒(・保護者)が正しく理解して運用できれば、双方の利益になることであると考えるのですが、現実はなかなかそういう訳に行かないように思います。どのようにすれば、そのような危惧を減らすことができるのでしょうか。

Written by ぴろ。

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