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【ネタバレ有り】「恋は光」という素晴らしい恋愛漫画が、ある原作ファン(私)から絶賛された実写映画化において、どのように読み解かれたのか考察する

(弁解:実の所映画は一度映画館で見たのみであり、記憶に頼って書いていますので、事実に反する記述・考察の甘い部分が散見されると思いますが、完全を目指して完成しない文章を書くよりも、不完全な形でも一度公開をしてみようと思った次第です。もし間違いがあればコメントいただければ幸いです。)

うまく申し上げることができないのですが、私はこの「恋は光」をある種キメラのような構造を持った作品だと理解をしています。それは、あまりにもキャラクターが「息づいてしまっていた」ために、本来作者が意図していた物語構造が内側から破壊されうる形で、物語が自発的にもう一つの軸を提示し始める作品だからです。この作品には、キャラクターがあまりにも生き出して、作者のコントロールが効かなくなってしまった瞬間の物語の躍動があり、読者の心を深く打つ奇跡のように美しい一ページを実現することにつながるのです。

『恋は光』についてワー=ターシ「カンソー」より 引用

はじめに

先日映画も公開されました「恋は光」という漫画ですが、僕は以前ブックオフでたまたま全七巻のこの恋愛コメディを大人買いしておりました。非常に好きな漫画です。中でも、この漫画のある一ページの衝撃は私の心を捉えて離すことがなく、私は畏敬の念を抱いているといっても過言ではありません。しかし、漫画に詳しくない自分にとっては、あまりメジャーな作品ではなかったこともあり、人とこの作品について喋る機会がありませんでした。この作品は自分にとって「語りたい」作品であるために、それは、残念なことでした。依然としてこの作品について語り合える人に出会ってはおりませんが、映画を見た帰り道に、あまりにも「語りたい」と言う欲望が抑えられないものとして膨れ上がり、その結果、独り言という形で私はこの作品についてのnoteを書くに至ったのです。

と言うのも、映画も漫画も全くの門外漢である私からして見ても、素朴な感想として、映画の制作陣がこの原作に非常に深いレベルで理解をしていることが伝わってきたのです。映画を見て、家に帰り、触発された形で再び原作を読み返し、いくつかの自分なりの気づきを言語化することができるようになったと思います。

このnoteの目的は、散漫としているものですが、あえて言えば本作品についての意図されざる「二つの軸」の関係性を整理し、原作と映画の相違点を整合的に理解することにあります。

(以下、ネタバレの記述に踏み込み始めます。)

言い換えれば、












なぜ東雲エンドの原作が映画において北代エンドに変更されなくてはいけなかったのか?と言う問題に一鑑賞者としての仮説を提示するということになります。

結論から申し上げるとそれはこの物語の軸が
第一に
①「恋というものを知りたくて」という東雲を中心に展開する哲学日常恋愛ストーリーとしての『恋は光』
②自らの恋に負い目を抱き恋というものを諦めている北代が自らの恋を肯定できるようになる感動恋愛ストーリーとしての『恋は光』
意図されざる魔合体として構成されているということ
第二に
本来漫画においては①という軸で構想されていた物語だが、キャラクターがあまりにも息づいてしまったため、作者の想定を超える形で②の軸が登場していくことになること
第三に
映画という形でリメイクをすることで、構成を変更し、②の軸を矛盾なくストーリーのメインにすることができるようになり、かつ、全七巻の漫画から120分弱の映画という尺に収める構成の変更上、一シーンの魅力において決定的である②の軸が物語の主軸として①にとって変わったこと。
という三つの事実によって説明できるためということになります。

まず、仮説として提示した二つの軸について紹介をしていきます。

①「恋というものを知りたくて」という東雲を中心に展開する哲学日常恋愛ストーリーとしての『恋は光』

まず原作から読み解いていきます。
「恋は光」のメインストーリーエンジンを一言にまとめれば「恋とは何か?」を西条を初めとした四人のキャラクターが探求する物語です。
この問いは、第一巻の第一話において既に提示されます。

「彼女の言葉がずっと引っかかっている "恋というものを知りたい"  これは俺にも言えることなのではないか と」

そして物語の結末は次のように終わります。

私達は幸せを作り積み重ね続ける 出会ったあの日に生まれた 一つの欲求を満たす為に "恋というものを 知りたくて"

故にこの物語のメインストーリーエンジンが、「恋とは何か?」という問いに貫かれていることは明らかなわけでありますし、またこの問いは「西条-東雲」の二人によって牽引されるものなのです。

この作品において、「恋とは何か」の探求は漫画という媒体にしては極めて分析的に為されますがこれは一つの大きな特徴です。「恋は学習と本能から成立する」という一つの回答は、キャラクター相互の議論の中で発生してくるものです。
それ故にこの作品は哲学コメディという側面も存在します。

「恋とは何か?」という問いをめぐって物語を展開させるのに不可欠なこのような奇妙な会話劇。それは果たして物語の構成上意図されたものだと言えるのでしょうか。もちろん、これは作者の意図によるものです。実際、物語をそのように成立させるために本作品では以下のような特徴が存在しています。

「恋は光」のメインエンジンに関わる三つの特徴

第一の特徴として挙げられるものはキャラクターたちの極めて独特なコミュニケーションスタイルです。
作中の登場人物、特に主人公の西条は、他者のコメントに対して極めて分析的に対応します。
その一つの例として、二巻末の、宿木の西条を好きではないという趣旨の(一般人であれば衝撃的なはずの)発言に対する西条の応答が挙げられます。

「ごめんなさい 私実は あなたのこと好きでも何でもなくて 東雲ちゃんと北代があなたを好きっぽかったから だから付き合ってって言ったの!!」
(中略)
「あなたの考え方はとても面白いと思いました 宿木さんは自分の尺度ではなく 客観的な評価を基にパートナーを選ぶのですね」

この西条の性格を、肯定的に捉えながら、北代は以下のように総括します。
・少し人とズレている
・ちゃんと話を聞こうとしてくれる
・すぐ変なこと言い出すから話してて退屈しない
そしてその性格故に

「センセの周りの空気は"楽"に満ちていて 私はそれが好きなんだ……」

という北代のコメントに現れるように、西条を取り囲む作中の雰囲気は、「話を聞き、否定せずに分析を加える」という会話のスタイルを実現しているのです。
このスタイルのコミュニケーションのあり方は、西条だけではなく東雲も生来持ち合わせているものであります。そしてそれに影響をされる形で宿木もこのようなコミュニケーションに接近していきます。その一つの現れは、具体的には5巻の40p付近、東雲と宿木が二人で映画を見て恋愛を分析するシーンとしても挙げられるでしょう。

多少グラデーションはありますが、作中人物達は、とにかく、否定をせず、感情と一定の距離を保ち、話を聞くというスタイルのコミュニケーションを取ります。(そのために、この作品はやや不思議な雰囲気を醸し出しているのです。)

「この二人は変わっている 私の悪癖を 否定もしないし かといって許容もしない 北代は諦観している というか 放置だし 東雲さんは ただただ真っ直ぐ向かってくるし」

2巻終盤 宿木のセリフより

このようなコミュニケーションスタイルが採用されることで「恋とは何か?」という抽象的な主題を物語のメインエンジンとして扱うことが可能になっているのです。

第二に、会話劇を前景に持ってくる為にか、物語の背景景色はいかにも普通のどこにでもあるキャンパスライフといった派手さのないものとして構成されています。6巻冒頭の就職活動に関する北代、宿木、東雲の会話などがその一例として挙げられます。また、キャンパス外では居酒屋でビールを飲んだり、宅飲みをしたり、お酒を飲みながら喋るシーンが多いのも特徴です。

このことも「恋とは何か?」という問いを巡る会話劇が物語の主軸になる上で必要であった、そうでなくとも大きな意味を持っていたものと考えられます。

第三の特徴として挙げられるのは、「恋とは何か」という問いに対して切実であるのは、西条・東雲コンビのみならず北代・宿木においてもそうであるということです。言い換えれば、この作品は、メインキャラクター四人全てが「恋を知らない」人間として描かれています。

西条・東雲は明らかであるとしても、北代・宿木が恋を知らないとはどういうことなのでしょうか。

まず、北代においては自分が西条に恋をしているという自覚こそあるものの、「(西条にとって)光らない」という形で、ある種客観的に自分の恋愛には何かが欠如しているという感覚が存在しています。実際、北代は西条と一緒にいれたらいいとこそ思っているものの、描いている未来は「老後」であり、「キスだとかエッチだとか」は考えていなかったことが4巻120ページ付近で示されています。

「もしかして私の好きっていうのが あの二人とは違うから光ってないってことなんじゃ…… やっぱり手を繋ぎたいとかキスをしたいとか……そういうのが無いから?」

次に、宿木においては、「恋の欠如」は彼女の恋愛スタイルの歪みという形で表されています。自分の好きな人という形ではなく、他者の好きな人、という(西条の言葉を借りれば「客観的な評価」)基準に寄りかかって恋愛をしている彼女には、やはり真っ当な「恋心」が欠如しています。

主要な登場人物の四人が恋というものをよく知らない。そのために、「恋とは何か」という問いが作中において一貫したストーリーのメインエンジンとして構成することになるのです。

ここまでの要約

以上において、この作品が「恋とは何か」という問いをメインエンジンとしていること、そしてそれを成り立たせる特徴として
・登場人物達の分析的な(ズレた)コミュニケーションスタイル
・派手さのない日常的な背景景色
・登場人物達に共通する「恋」に対する自覚の欠如
が存在すること
について言及してきました。

そしてこのことから更に言えることとして、原作漫画における東雲エンドの必然性が挙げられます。作中において中心となる、この、「恋というものを知りたくて」という問いは、その発言の主が東雲であること、そして彼女が登場人物の中で最も旺盛にその問いを探究すること、何よりこの問いへの関わり方として「鈍感」「未熟」である点で西条と共通し彼と対をなす立場に東雲がいること、といった三つの事実に導かれて、東雲においてその回答が与えられるべきものであるはずだからです。

また、物語の主人公たる西条に視点を戻した時に「恋とは何か」という問いは理論のみならず彼の(擬似的な)恋愛実践を通じて探究されるものでもあるという観点から作品を分析してみても、東雲エンドを作者が最初から構想していたことが読み取れます。
「恋は光」の物語の序盤においては宿木との奇妙な恋愛模様が展開され、中盤においては彼の疑似恋愛パートナーはSNSでの偽装カップルという設定のために北代へと継承されます。宿木→北代とパートナーが受け渡されていく構造を見たときに、当初から残る唯一のヒロインである東雲が最後のバトンを受け継ぐ形が意識されていたと考えることは自然でしょう。

繰り返しになりますが、以上のことにより、この作品の構成上、東雲エンドはある種必然的なものとなります。

「恋している女が光って見える」という設定の存在意義

一方でここでやや疑問が残らないわけではありません。それは、以上の説明においてこの作品の中心的な設定である「恋をしている女が西条には光って見える」という設定に言及をするのがともすれば困難なことです。

この作品設定の面白さはいうまでもなく「本来客観的に判断することのできない『恋愛』を可視化している」ということにあります。言い換えれば西条は恋愛漫画においてあるまじき「自分のことが好きな他人が一目瞭然で判明する」というチート能力を手にしているのです。

ところがこの能力は「恋とは何か」という問いに関わる範囲においては、恋というものを考えるための一つのきっかけでしかありません。このストーリーのメインエンジンと関わる上では、この設定であることの必然性は弱いものだと言えるでしょう。

それではこの「恋をしている女が西条には光って見える」という設定は作品において意味のないものなのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。

メインエンジンにおいては単なるきっかけとして扱われるだけの「恋している人が光って見える」という設定は、その居場所を別のところで発見してしまいます。それは奇妙なことに東雲ではなく北代を巡る問いとして立ち現れてくるのです。

すなわち、これは以下のことを意味しています。物語が進むにつれて、物語の牽引のために引かれた補助的なフックであった「北代は恋をしているのに光らない」という補助線が躍動し始めるということ。北代における矛盾が「恋とは何か?」という問いに対応する形で「恋の光の正体とは何か?」という問いの中にいきいきを芽吹き始めるのです。

そしてこの、「恋とは何か」という作品の主たる問いへの回答とは少し離れた場所において、作品の中心的な設定を活かすため引かれたこの補助線こそが、やがて作品のメインエンジンを凌駕しうる勢いで成長していく「北代エンド」の可能性に他なりません。

②自らの恋に負い目を抱き恋というものを諦めている北代が自らの恋を肯定できるようになる感動恋愛ストーリーとしての『恋は光』

上で述べた通り、この作品の中心的な設定たる光にまつわる問い、「光は何だ?」という問いは奇妙なことに東雲ではなく北代において最も切実に現れます。これがこの作品が歪でそれゆえに他に有難い魅力的な構造をとる所以でもあります。

北代と西条のアジール的関係性について

そのことを説明するために、まず、西条と北代の関係性を改めて確認しておきましょう。
この作品の中で奇妙なミステリーとして浮かび上がってくるのは「北代は西条に恋をしているのに、西条の目からは光って見えない」という謎です。
このことは、北代と西条の関係性が、単なる「友情」「恋愛」という言葉では組み尽くせない、二人が独自の文脈を持ってして築き上げた名前のつかない関係性を共有していることと表裏で響き合っています。

「これまで通り 今まで通り 私とセンセが築いてきたこの関係が 恋人・家族・友人のどれにも当てはまらなくてもいい」

4巻後半北代のセリフより

「どこにも居場所がないと思っていた そんな自分を居場所にしてくれたのが北代だった」

6巻終盤の西条のセリフより

そして、この二人の名前のつかない関係性は、双方にとってある種のアジール、お互いにとって他の世界から逃げた先、隔離されて安心できる場所のように機能していたものだと考えられます。

まず、西条が北代に心を許しているのは、変わり者の自身の近くにいつも楽しそうにいてくれたという側面に負う部分も大きいと思います。もちろんそれだけではなく、自らの辛い生い立ちから離れた場所に北代といるときはいるような気分になれた、そのような存在として西条にとっての北代があることもまた事実です。

「俺にとって北代は…辛い時や寂しい時自分の出生を呪い卑屈になりそうな時は気が付いたら近くにいてただ楽しそうにしていた

6巻終盤の西条のセリフより

一方で北代が西条を好ましく思う理由は、(先ほどにも述べたような)西条の一貫した分析的コミュニケーションスタイルに表裏のなさを感じ、彼の前では彼の発言の真意を色々と考える必要がないという部分にもあるのではないかなと思います。
北代は非常に周りの空気を読むことが得意な人間として描かれております。それは明るさの裏に繊細さを隠しているという可能性を含んでいます。「気を遣ってしまう」性格だからこそ、「ズレている」西条のコミュニケーションスタイルとの相性がいいものだと考えられます。

「センセの近くは何か落ち着くし気ぃ遣わなくて良いし居心地が良いからかな」

6巻終盤の北代のセリフより

いずれにせよ小学生以来、二人で長い年月をかけて積み上げてきた関係性は今更「恋愛」という名前で括るには豊かすぎるものです。

北代の恋の不完全性

そして、その関係性の特殊さが、北代の「恋愛感情」を「キスだとかエッチだとか」を飛び越えて「老後」を想像するような、性愛的な要素の乏しいものとして構成していくのです。

この事実が、「北代は西条にとって光を発する存在ではない」というもう一つの事実と重なります。そしてここにおいて、北代の恋愛の不完全性、言い換えれば「これは西条の求めるような『恋愛』では無いのかもしれない」という負い目を構成していきます。

「センセと話していけばいくほど センセの見ている光というものは私の持っていないもののような気がしてくる 少しだけ つらい かも」

5巻中盤 北代によるセリフ

「自分は光っていないという負い目が払拭されて」

6巻後半 北代によるセリフ

ここに、「恋とは何か?」というストーリーのメインエンジンとは離れたもう一つの問いを巡るドラマ、すなわち、自らの恋に負い目を抱き恋というものを諦めている北代が自らの恋を肯定できるようになる感動恋愛ストーリーとしての『恋は光』が姿を顕してきます。

このドラマは北代というキャラクターの魅力によってさらに説得力を増します。あまりにも「気を遣える」「ふざけていられる」が故に、自分自身、ひいては読者においてすらこの葛藤が完全に表面化してこない北代の辛さ。「私の恋は恋ではないのだろうか」という問いは、特に人生に裏付けられた理由が深く描かれないままに発せられた「恋というものを知りたくて」という東雲の問いよりも、北代という人間の実存から発せられたものとして、物語上最も切実なエンジンとして機能しうる存在感を見せます。

「恋とは何か?」という問いと「恋の光とは何か?」という問いの狭間に横たわる微妙な差異

そして更に興味深いことに、ここに(理論上・構造上この物語を牽引すべきはずの)「恋とは何か?」という問いと(実際にこの物語を牽引する)「恋の光とは何か?」という問いのずれが現れてきます。

先ほどから繰り返し記述してきた通り、この物語のメインエンジンはその構成を見ても「恋とは何か?」という問いであることは間違いありません。それは、この物語を通じて「本能と学習の両面」という回答を与えられるものとして存在しています。

ところで、この物語において、その「恋とは何か?」という理論的な問いを具体的な、主人公達にとって当事者性を強く持った問いとして落とし込んだものとして現れるのが「西条の見える(恋の)光の正体とはなんなのか?」という問いなのです。

すなわち、この物語は分析的会話劇ではない側面においては実際のところ、「西条の見える(恋の)光の正体とはなんなのか?」という謎を持って読者の関心を惹きつけていくものになっています。

物語の序盤、この光が「恋の光」であることは自明なものとして考えられていました。しかし、そこに問いが突きつけられます。

「それって本当に 恋の光なのかね」

1巻終盤 北代のセリフより

そしてこの問いは、文字通りの意味でも、ストーリーの展開上も、実の所、西条でも東雲でもなくて興味深いことに北代によって最も強く発せられる問いです。

なぜならばそれは北代自身が光っていないという事実が存在するためです。

「私がセンセに対して光っていないと言われると どうしても"恋ではない"と否定したくなる」

1巻終盤 北代のセリフより

西条の問いとしての「恋の光の正体」は、もちろん宿木の光を訝しく思う気持ちはあったにせよ、あくまでこの北代の問いを受けて、二次的に発生したものとして考えられます。

そしてこの問いが北代の問いであるが故に、「恋とは何か?」という理論的メインエンジンの問いと、実際に物語を駆動する「恋の光とは何か?」という問いには確かにズレが存在します。

前者の「恋とは何か?」という問いは「本能と学習」の両面を構成する問いです。しかし後者の「恋の光とは何か?」という問いは突き詰めれば「なぜ北代は光らないのか?」という問いを物語上その核に置いています。それはすなわち「本能に寄らない恋とはいったいどのような恋なのか?」という「学習の恋」という片面を構成する問いなのです。

言い換えれば、「恋とは何か?」という問いとして構成されたこの物語はいつの間にかその牽引役を「(本能の欠けた)学習による恋は恋と呼べるのか?」という問いにすり替わっているのです。

この、奇妙な入れ替わりが、この作品が醸し出すなんとも言えない魅力になっていると私は強く感じています。そしてこの入れ替わりこそが「北代エンドの可能性」として読者に強く感じられる根拠となってくるのです。

作者に意図されざる物語の躍動

ただこの入れ替わりを私は、作者の構想に寄るものではなく、あまりにもキャラクターが息づいてしまったが故に、作者の構想をも内側から破壊する形で立ち現れてきてしまった、物語の躍動によるものだと考えています。

それは以下のような理由によります。

第一に北代における欠落描写の不在です。
本作の主人公である西条は「母親の愛の欠如」と言う大きな欠落を最初から背負ったキャラクターとして構想されています。そして原作においてメインヒロインである東雲はそれと対を成すように「親の不在」と言う大きな欠落を背負ったキャラクターとして存在しています。
一方で北代にはそのような明白な欠落はありません。この、西条との非対称性において、北代は東雲に対して物語の構造上劣る立場にあると考えます。
もし、作者が北代の問いを作品のメインエンジンとして当初から構成していたのであれば、北代に欠落を背負わせると言うことも考えられたと思います。

第二に、北代は、原作において「恋が光って見える」「生い立ちのストーリー」を大学生活(=物語に経過する時間)の中で知ることになります。
すなわち、西条と共有した秘密において東雲たちとの差別化が大きいわけではなく、西条と北代の関係性のアジール性は比較的弱いものとして考えられているのです。

「センセの過去は思ってたよりずっと ヘビーだな」

5巻中盤 北代のセリフより

第三に、北代が告白をした時の態度の軽さ、そして告白後のあくまで飄々とした姿勢です。

「いーよ しゃーない」

7巻終盤 北代のセリフより

北代はこの二言で、西条の告白を受け流します。これは告白を断られた人の態度として考えられる中で最も軽い返答ではないでしょうか。

そして何より彼女は最上に振られたことを「辛くはない」と語るのです。

「辛くは無いけど ちょっと悔しいよね センセを幸せにできるのが私じゃなかったって言うのは でもやっぱ センセが幸せそうだから 良かったなーって思うよ」

7巻終盤 北代のセリフより

以上の三つの特徴は、この原作において、東雲の地位より北代の存在感が劣るものとして構成されることに貢献するものです。

他の描写もあり得たが作者はこのように物語を語った。そのことから、この作品は、あくまで「東雲エンド」の物語として構成されたものだと考えられます。

しかし、ここで他の読者に聞いてみたいことがあります。それはこの「恋の光」という作品の中で最も印象に残ったシーンはどこか?という質問です。

これは主観的な問いですから一つに定まる正解があるものではありません。その上で私にとって、この問いへの答えは、東雲と西条が結ばれる恋愛シーンではなく、六巻後半の「今まで見た誰よりも北代さんが一番光ってて」というセリフとともに光る北代のシーンになってしまっているのです。

このことは、私という一読者の胸を強く打ったのは、東雲によって発された問いではなく、北代によって発された「私はなぜ光らないのか?」という切実な問いであったことを示唆しています。

この点において、私は、作品のサブエンジンたる北代が、メインエンジン東雲を凌駕する存在たり得たことを感じるのです。

北代の告白シーンがなぜあれほどに胸を打つのか

しかし、北代の告白シーンはなぜあれほどに読者(少なくとも私)の心を打つのでしょうか。

それはこのシーンが、やり場のない絶望と喜びの両義的なカタルシスを実現しているからです。

それは換言すれば以下の要素から成り立ちます
・第一に登場人物たちの誰も悪意がない状況のこと(やり場のなさ
・第二に北代が西条に振られることを読者・北代が強く予感していること(絶望
・第三にそれでもこれは北代の思いが「恋」として肯定された瞬間であること(喜び

この要素が、大洲のセリフによって一気に交差し爆発する瞬間、それが北代が初めて光って見えるシーンなのです。

「今まで見た誰よりも 北代さんが 一番光ってて」

6巻後半部 大洲のセリフより

この時の北代の感情は、10年以上もこの西条というズレた男と二人で二人だけの名前のつかない関係を積み上げてきた北代だけの、既存の言葉がもはや追いつかない感情なのだと読み手は想像することになります。そしてその思いを背負って北代はこう西条に告白するのです。

「うん 好きだよ ずっと ちゃんと 好き」

6巻後半部 北代のセリフより

この「ちゃんと好き」という僅か6文字に至るまでの、二人が積み重ねてきた文脈の長さと、そのかけがえのなさが、この作品に奇跡的に美しいカタルシスをもたらすことになるのです。

そしてここにおいて自らの恋に負い目を抱き恋というものを諦めていた北代は、ようやく、自らの恋を「恋」として肯定することができたのです。

それでも北代の恋が原作漫画で報われることはありませんでした。それはこの北代を巡る物語は当初から作品の中心となることをその構造上意図されていなかったためです。また、原作漫画は七巻という長さがあったために、哲学会話劇としての軸の強さをも十分に確保することができました。そのために、北代をメインヒロインにすることはなかったものと考えられます。しかし、「負け犬ヒロイン北代の告白の持つあまりの印象の強さ」という逆説は映画の改編を呼び起こすことになります。

映画における改編

映画における改編はそのラストを北代エンドへと変更したことからも明らかになる通り、物語のメインエンジンを「恋というものを知りたくて」という東雲の問いによって構成される哲学会話劇から、「恋の光とは何か?」=「なぜ私は光らないのか?」という北代の恋の不完全さを巡る物語へとその軸足を変更したものであります。

そのことは以下の改変によって実現しています。

冒頭の問の変更について

まず、そして最も象徴的なこととして、作品の冒頭に提示される問いが変更されていることが挙げられます。
原作においては作品は冒頭部において「恋というものを知りたくて」という東雲の問いが置かれ、そこから物語が始まります。
一方で映画においてはオリジナルの文句である「恋とは誰しもが語れるが誰しもが正しく語れないものである」という北代のセリフが謎めいた形で提示されます。すなわちこの問いが作品を牽引する問いとなっているのです。

この二つの問いは、その発言者が異なるのはもちろんのこと、その内実も微妙に異なるものです。
前者の「恋というものを知りたくて」というのは恋の欠如を表しています。一方で、「恋とは誰しもが語れるが誰しもが正しく語れないものである」というのは北代の抱える恋の不完全さを表すものです。
欠如と不完全は異なるものです。
「欠如」をこの物語における恋の定義を踏まえて換言すれば「本能と学習の両方が存在していない状態」ということが言えるでしょう。実際物語の冒頭部において、東雲は恋をする本能を感じたこともなければ、やがて恋する相手の魅力をともに過ごす中で学習した経験もありません。
一方で「不完全」は「本能のみが存在していない状態」ということができます。これは、学習による恋しか持ち合わせていない北代の状態を表しています。

恋の欠如を巡る物語から恋の不完全さを巡る物語への転換。原作と映画の相違点は、作品冒頭に提示される言葉の違いによってシンプルに説明することが可能なのです。

作品構成の転換

更に、原作の構成を補う形で以下のような作品構成の転換がなされています。

その一つ目は北代の抱える欠落をほんのりと示唆をする描写です。
これは私の憶測になりますが、映画において北代は金銭的に苦労する苦学生的な側面が足されたように思われます。

原作においても「お金がないから宅飲みで」というような趣旨の北代の言葉は存在していましたが、映画においてはそのセリフの存在感がやや増しているような印象を受けました。

更に北代は映画においてはアルバイトをしているシーンが頻繁に登場しています。これも北代が金銭的に苦労をしている可能性を示唆するものです。

作品の色を損なわない範囲で、北代の抱えている・背負っている困難さの描写の存在感が増すことで、親の不在という大きな欠落を抱えた主人公である西条と、幾分か対照的な地位にありつくことのできる下地が用意されたものだと私は捉えました。

二つ目は、秘密の共有による二人の関係性の強化です。
原作においては、物語の中で北代は西条の抱える生い立ちの秘密や、「恋する女が光って見える」という西条の特殊能力を西条の口から聞くことになります。
一方で、映画においては、そのようなシーンは存在せず、北代は初めから西条の抱える二つの秘密を知っているキャラクターとして描かれていたと思います。
このことは、「西条と北代の間の関係性の強さ」において東雲と差別化される転換であったと考えられます。

三つ目に、作品の非日常性の強化です。
例えば、漫画の作品においては多くのシーンがキャンパスないし居酒屋で展開されていましたが、映画においては「存在感のある距離のある東雲の実家」「存在感の強い西条の家」「北代と西条の釣りのシーン」といった形で非日常的要素が追加されています。
このことにより、原作漫画がもった、日常的な背景景色を持った哲学的会話劇という側面は、作品の重要な特徴ではあるものの、作品のメインエンジンの地位からは幾分か後退します。

四つ目にキャラクターの持つ性格の変化です。これについて、小林監督自身がインタビュー動画で語るように、まず西条のキャラクターはより変人として構成されています。

一方で北代のキャラクターは、より常識的な側面を強めている箇所もあります。それは例えば物語の序盤にて、東雲を夜釣りに誘おうと言う西条のセリフに対する北代の反応の違いに表れています。

原作においては北代は西条のデートプランとしては非常識な発言(次は東雲を夜釣りに誘うか という趣旨の発言)に対してけしかけるように発言します。これは北代の変人ぶりを表している発言です。

「おーおー バンバン釣れるといいな!」

1巻中盤 北代によるセリフ

一方で映画においては(正確なセリフは失念したのですが)「それはどうなの……?」と言うような冷静な常識的なツッコミを見せるのです。

映画における西条の変人化と北代の常識人ぶり。この僅かな性格の変化は、「なぜ普通の人の北代がこの変な西条と一緒にいるのだろう」という観客の疑問を更に喚起し、その問いに答えるためにかえって北代の西条に対する想いの強さが印象付けられるのです。

そして、五つ目として、北代が西条に告白した後の取り乱し方をあげることも可能です。原作においてはあくまでサッパリとした対応に留まりましたが、映画においては西野七瀬演じる北代はより感情的な外見を呈します。これも北代の存在感を強化します。

以上これらの微妙な差異によっても、映画においては「今まで見た誰よりも北代さんが一番光ってて」を軸とした物語構造が実現されていることが理解できます。

映画においてなぜ改編がなされたか

映画においてなぜ原作から改編がなされたか。それについて私は以下のような仮説を持っています。

第一に映像では漫画以上に会話のリアリティのなさが際立ってしまうため、哲学的会話劇を作品のメインエンジンとして構成することは困難であったこと。

第二に7巻という物語を二時間の作品に収める都合上、一つのシーンを軸に展開をさせる方が物語として構成をしやすく、そしてそのシーンとして選ばれるのは北代の告白シーンであったこと。

第三に映像化する以上、映像的に面白い作品であることが求められるため、原作以上に「恋している人が光って見える」という視覚的な情報が持つ存在感が増したこと。これはその設定に関係する問を持っている北代に注目が集まる状況を作り出すことにつながります。

いずれにせよ、北代エンドへの転換は物語の構造を根本的から変容させる大きな転換ではありましたが、それは原作の構造を丁寧に掬い上げた上で為された見事な転換であったと考えることができます。

補題:作品から離れた時に

以上、原作においては「恋というものを知りたくて」という東雲の問いに答える物語であった「恋は光」が、映画においては「恋とは誰しもが語れるが誰しもが正しく語れないものである」という北代の恋の不完全さを恋として肯定する物語に転換したことを記述してきました。

これはこの物語が、「恋とは何か?」という恋の重心を定義する物語から、「学習による恋(本能のない恋)も恋と呼ぶことができるのか?」という恋の多様性を巡る物語に転換したということに他なりません。

この作品において西条と北代の関係は元来「名前のつかない関係」でありました。その深く豊かな関係性を「恋」という言葉で肯定することは果たして唯一の答えだったか。そのような問いを考えてみると、私は、この物語を更に内側から破壊していく別の可能性の存在を想像します。

それは、例えば二人の関係性を、あくまでも「恋」ではないもの(「恋」に押し込められるようなものではないもの)とした上で、それでも東雲ではなく北代とのかけがえのない関係性を選ぶという形で、肯定するという物語です。

北代の問いは「光が恋じゃなかったらいいな」ではなくて、「恋じゃなきゃ私たちは一緒にいられないのか」と転換される可能性もあったのでしょうか。「恋でなくてもただ俺はお前と一緒にいたい」という言葉でこの作品が終わる可能性はあったのでしょうか。

例えば同じタイミングで映画が上映されている「流浪の月」という映画は、そのように男女の登場人物の名前のつかない関係性をそのままに肯定する物語だと考えられます。

してみると、この北代というキャラクターの持つ要素と西条と結ぶ関係性をあくまでも「恋」という言葉を使って肯定し、そこに希望を見出すこと、ここにはどのような意味が与えられるのでしょうか。

私は映画を見てからそのようなことをぼんやりと考えています。それでもなお、私はこの映画において、この二人の関係が「恋」として祝福されたことを一つの望ましい終わり方だと思います。そのことの意味をぼんやりと考えるということも「恋とは何か?」を問うこの作品に対する一つの自分なりの向き合い方なのです。

(お付き合いいただきありがとうございました。15000字弱のnoteになりました。原作と映画を両方見ている人を読者とする、ちょっと誰が読むのかわからないnoteですが、映画漫画の素人の戯言をここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。よければスキと、コメントを頂けると大変嬉しく思います。画像使用とか著作権的にダメであればそれもご教示いただければ幸いです。)


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