時間・不在・ことば

私は哲学をちゃんと勉強したこともないし、その方面の才能には恵まれていないので、何か新しくて正しいことを言おうと思ってこういう文章を書いているわけではなく、誰かに「こういう本を読むといいよ」と教えてもらえたらと思ってこの文章を書いています。

さっきまで哲学のオンライン講義を聞きながら、時間と不在(つまり存在のことかもしれませんが)とことばの関係性についてぼーっと(その割に夢中になって)考えていました。これは、思えば高校生くらいの時から考えている話の気がします。

物心ついてからずっと死ぬのが怖い私は、「死ぬこと=存在しなくなる」ってどういうことなんだろう、ということをよく歩きながら考えます。例えば、ここにあるりんごが「ない」ということはわかるけど、自分が、この私が存在しないということは、それとは全く違う事態だということはわかっているわけです。でもそれって、どういうことなんだろう。「存在しない」ってどういうことなんだろう。

そういうことを考えながら歩いていた高校生のある日、僕は突然「存在するものと存在しないものを、どうやって僕たちは見分けているんだろう。」ということがよくわからなくなりました。

0=∞

冷静に考えてみると、何かがあるということと何かがないということの違いってないんじゃないか。このことを言葉で使えるのはすごく難しいのですが、言って仕舞えば「存在する」ということがよくわからなくなったのです。存在するということは言い換えれば「不在ではない」ということだと思いますし、「不在する」ということは「存在していない」ということなので、お互いがお互いを必要としているような関係であると思いました。じゃあ、その一歩前に立ち戻って、どうやれば「存在したり存在していなかったりする」という状態を考えることができるんだろう。

思えばこのことはずっとよくわからなかったのですが、どうもそれは時間と関係があるらしいぞ、という気がします。

私たちが知覚することができるのは、この<いま>しかないわけで、過去というものは知覚することはできないです。ところが、存在と不在を考えるときには時間というものを考える必要がある。<いま>しかないのであれば(そして本当は<いま>しかどう考えてもないわけですが)全てのものが<いま>のように存在してしまっているわけでその不在というものを考えることができない。ところが<いま>ではない<いま>があったことを僕たちは感じることができるからこそ、存在しているものが存在していなかった、とか、存在していなかったものが存在している、という形で存在を考えられるようになる。

思えば、空間というものを私たちが了解できるのも不思議な話なわけです。絵というものは二次元によって三次元を表現することができるということの証明です。私たちの視覚は極めて二次元に近い形で構成されています。にもかかわらず、世界が三次元であると私たちが感じることができるのは、私たちが移動することによって、二次元の世界が連続的に変化していく様を通じて「奥行き」を了解できるからであり、それは世界の空間的了解が「連続的変化」というものの知覚を可能にする時間感覚によって了解されていることの証拠ではないでしょうか。

私たちが音楽を聴けるのはなぜかといえば、これも<いま>知覚していることだけでなく過去のメロディーを同時に想起することによって可能になっているわけで、時間感覚がないと始まらないわけです。

存在しているということが了解可能なのは、それが「不存在だったかもしれない」と考えることができるわけですが、これは時間によって<いま>じゃない<いま>があったことを理解しているからこそ、この世界には<いま>じゃない<いま>が存在し得るということを理解できるからです。

時間感覚というものは、他の感覚(五感)と違った形で存在している感覚だと言えます。五感と違って時間感覚は身体の特定の部位と結びついていないので自分の意思でコントロールするのが難しいからそう感じているだけのことかもしれません。しかし、時間感覚がない状態での感覚(五感や感情)というものを私たちが想像するのは難しい。しかし知覚がない状態でも時間感覚というものは考えられるように思う。デカルトが「我思う、故に我あり」と言ったのは、実は時間感覚のことだったのではないでしょうか。

ことばというものが存在するのも時間感覚があるからのように思われます。言葉というものは二項対立でできているような気がします。というのも、Aということを言いたい時にはそれが「Aではないものではない」ということを言っているからです。つまり、Aという時にはBではないということを同時に言っているわけです。これは抽象的な話ではなくて、日常的にもよくある言葉の話だと思います。サッカーの解説者が「あそこでシュートを打ってきた!」という時の感動は「パスを選択しなかった」という不在の感覚を共有できる人にこそ伝わるものだったりしますし、「我が国の選挙区制度は小選挙区制だね」と語るときには例えば同時に「比例代表制ではないね」ということを言っている、むしろそちらの方が伝えたいことである、ということもよくあります。してみるとことばというものは不在の感覚によって成り立つ構造がもともとあるわけで、これを可能にしているのはやはり時間感覚なのではないでしょうか。

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