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もし宮沢賢治が現代の新聞に投稿したら

小学校6年生の国語の教科書に、40年以上も採用されている宮沢賢治の「やまなし」。「クラムボン」とはいったい何なのだろうか。不思議な言葉の響きが耳に残っている人も多いのではないでしょうか。

この作品は、1923年4月8日、宮沢賢治の地元・岩手県の「岩手毎日新聞」(現在は廃刊)に掲載されました。生き物の特性を生かした躍動感、色鮮やかな鉱物、独特のオノマトペで表現された臨場感を感じる音・・・。

掲載当時、宮沢賢治がまだ20代半ばの若さだったことにも驚かされます。

ただ、現代の感覚でこの作品を読むと難しく感じませんか? いかに日本語で書かれているとはいえ、時代によって言葉使いは変わってきます。当時の新聞記事を読んでみても、言葉使いが今とまったく違うことが分かると思います。

では、もし現代の新聞に宮沢賢治が寄稿していたら、どんな作品になったのでしょうか。私も新聞記者として働き始めて10年あまり。「もし担当の記者として宮沢賢治の原稿を受け取ったら、どのように修正をお願いするだろうか」。そんな目線で今回は超訳に挑戦してみました。


【もし、「やまなし」が現代の新聞に載ったら……】

(宮沢賢治の原文は青空文庫から読むことができます)

これから紹介するのは、山のなかにある小さな川の底で暮らすカニの目線を映した二つの映像です。最初は、晩春の陽光が差し込む5月、生き物が活発に動いています。二つ目は、11月の月の光に照らされた静かな川です。水の透き通った青さがきらめく、幻想的な世界をお楽しみください。

一、5月

 2匹のカニのきょうだいが、青白い水の底で話していました。

『クラムボンは、笑ったよ。』

『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ。』

『クラムボンは、はねて笑ったよ。』

『クラムボンは、かぷかぷ笑ったよ。』

 カニのきょうだいから見た川のなかは、青く、暗く、硬い鋼のように見えます。カニの口からこぼれ、小さなつぶとなった暗い色の泡が、なめらかな水の天井を流れて行きます。

『クラムボンは笑っていたよ。』

『クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。』

『それならなぜクラムボンは笑ったの。』

『知らない。』

 つぶつぶの泡が流れて行きます。カニのきょうだいも、ぽっぽっぽっと、続けて5、6つぶの泡をはきました。それはゆれながら、水銀のように光って、映像のななめに上の方へのぼって行きました。

 今度は1匹の魚が出てきました。スーッと銀色の腹をひるがえして、カニのきょうだいの頭の上を通りすぎて行きました。

『クラムボンは死んだよ。』

『クラムボンは殺されたよ。』

『クラムボンは死んでしまったよ………。』

『殺されたよ。』

『それならなぜ殺された』。カニのお兄さんは、自分の右側の4本のあしの中から2本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。

『わからない。』

 魚がまた、スーッと、もどって下流のほうへ行きました。

『クラムボンはわらったよ。』

『わらった。』

 にわかに周囲がパッと明るくなり、黄金色の太陽の日差しが、まるで夢の中の世界のように水の中に降りそそいできました。

 流れる水のせせらぎを通った日差しが、光の網となって、川の底の白い岩の上で美しくゆらゆら、のびたり、ちぢんだりしました。泡や小さなごみから伸びたまっすぐな影が、棒となって、水のなかに斜めにならんで立ちました。

 魚が泳ぐと、水面が揺れ、今度はそこら中の金色の光がまるっきり、くちゃくちゃにされてしまいました。魚の体は鉄色にぎらぎらと光り、また、上流の方へ泳いで行きました。

『お魚はなぜ、ああやって行ったり来たりするの。』

 見上げていた弟のカニは、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。

『何か悪いことをしてるんだよ。とってるんだよ。』

『とってるの。』

『うん。』

 その魚がまた上流から戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾も動かさず、ただ水にだけ流されながら、お口を輪のように丸くしてやって来ました。その影は黒く、静かに川底の光の網の上をすべりました。

『お魚は……。』

 その時です。

にわかに水面に白い泡がたって、青く光るまるでギラギラとする鉄砲弾のようなものが、いきなりとびこんで来ました。

 兄さんのカニは、水のなかに飛び込んできた青いものの先が、コンパスのように黒くとがっているのをはっきりと見ました。そうするとすぐに、魚の白い腹がギラッと光って、ひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきり。もう青いものも、魚のかたちも見えなくなり、金色の光の網がゆらゆらとゆれ、泡のつぶも流れていきました。

 二匹は、まるっきり声も出ず、うごけなくなってしまいました。

 お父さんのカニが出てきました。

『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』

『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』

『どんなもんだ。』

『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒くてとがっているの。それが来たら、お魚が上へのぼって行ったよ。』

『そいつの眼が赤かったかい。』

『わからない。』

『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。カワセミというんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちにはかまわないんだから。』

『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』

『魚かい。魚はこわい所へ行った』

『こわいよ、お父さん。』

『いい、いい、大丈夫だ。心配するな。そら、かばの花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』

 泡と一緒いっしょに、白い樺の花びらが水の天井をたくさんすべって来ました。

『こわいよ、お父さん。』。弟のカニも言いました。

 光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。

二、11月

 カニの子どもたちも大きく育ち、川の底の景色も夏から秋の間にすっかりかわりました。

 白いやわらかな丸石もころがって来て、小さなキリの形をした水晶の粒や、金雲母のかけらも川上から流れて来ては、とまりました。

 夏の終わりに捨てられたラムネのビンを、月明かりが通り、つめたい水の底までいっぱいに、すきとおった光を届けています。天井で揺れる水は、青白い火を、燃やしたり消したりしているよう。あたりはしんと静まりかえり、ただ、いかにも遠くからというように、その水の音がひびいて来るだけです。

 蟹の子供らは、あんまり月が明るく、水がきれいなので、眠らないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて頭上を見上げていました。

『やっぱりぼくの泡は大きいね。』

『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。ぼくだってわざとならもっと大きく吐けるよ。』

『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』

『大きかないや、おんなじだい。』

『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』

『やっぱり僕の方大きいよ。』

『本当かい。じゃ、もう一つはくよ。』

『だめだい、そんなにのびあがっては。』

 またお父さんのカニが出てきました。

『もう寝ろ寝ろ。おそいぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』

『お父さん、僕たちの泡どっち大きいの』

『それは兄さんの方だろう』

『そうじゃないよ、僕の方大きいんだよ』弟のカニは泣きそうになりました。

 そのとき、トブン。

 黒い丸い大きなものが、天井から落ちて、ずうっとしずんで、また上へのぼって行きました。キラキラッと金色のぶち柄がひかりました。

『カワセミだ』。カニの子どもたちはくびをすくめて言いました。

 お父さんのカニは、遠めがねのような両方の眼を、ぐっと伸ばして、よくよく見てから言いました。

『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああ、いい匂においだな』

 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。

 三匹は、ぼかぼかと流れて行くやまなしのあとを追いました。

 そのカニたちの横歩きと、川の底に映った三つの黒い影法師が、合せて6つ、おどるようにして、やまなしの丸い影を追いました。

 間もなくして、水はサラサラと鳴り、水面で揺れていた水は、いよいよ青いほのおをあげ、やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹が、もかもか集まりました。

『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』

『おいしそうだね、お父さん』

『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んでくる、それからひとりでに、おいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝よう、おいで』

 3匹の親子カニは、自分たちの穴に帰って行きます。

 水面で揺れていた青白いほのおは、ますますゆらゆらとゆれました。それはダイヤモンドの粉をはいているようでした。

        *

 カニから見た川の映像は、これでおしまいです。

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