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テクノロジーとクリエイティブを考える

近頃、ビジネス書の表紙をアートという言葉が飾ることが多いように思います。化学・論理的思考・テクノロジーを軸として発展してきた近代において、思考のジャンプによって既存の枠組みを打ち壊すように見えるクリエイティブな力に対して、社会は称賛や羨望、妬み、恐れなど、正負さまざまな感情を抱えてきたのだと思います。

ときに迫害や軽視というネガティブなかたちでそうしたさまざまな感情が発露されてきたことは歴史が語るわけですが、アートというワードを冠したビジネス書が乱立する本棚を見て、近年、クリエイティブ・発散的思考・創造的思考・アートといった概念をビジネスの世界が呑み込んで、足りないところを補うことを試みるような兆しが顕在化してきたように感じるのは僕だけでしょうか。

呑み込もう、傘下に置こう、という強い姿勢が目に映るのは私の個人的な色眼鏡によるものかもしれませんが、いずれにせよ現代社会においてテクノロジーとクリエイティブはある面では対極にあるものという扱いを受けているという程度の主張は言い過ぎにはならないのではと思います。

そんなテクノロジーとクリエイティブの関係性についてお風呂に入りながらぼんやりと考えていたことを脈絡もなく書き留めて未来の自分に託すために、今、筆を執っています。個人的な営みに公の場を使う後ろめたさはありますが、この記事がどなたかの心の中にさざなみを起こす小さな可能性を期待してnoteに書きたいと思います、お付き合いください。

テクノロジーとクリエイティブ。かなり広い概念を取り沙汰して論じようという乱暴な試みが今から行われようとしているわけですが、理由があります。一言一句違わず、テクノロジーとクリエイティブ、それぞれの(偏見も含むざっくりとした)印象はどんなものか?という問いをつい最近問われる機会があったためなのです。

このときの私はテクノロジーの世界の住人としてクリエイティブの世界に住む人たちの印象を述べることを要求される立場だったのですが、自身が普段絵や写真に向き合うときのことを思い出して「取捨選択が上手な人」という言葉を書きました。

それからしばらく立って今日、お風呂に入っているとき、ふと、テクノロジーは「できるようにする・拡げる」という方向性のエネルギーを持っている一方、クリエイティブは取捨選択のイメージから「絞り込む・収束する」というエネルギーを持っているのではないか、と頭に浮かんできました。

世間一般には論理的思考から導かれるテクノロジーは収束を、創造的・発散的思考から導かれるクリエイティブは発散を得意としていそうなので、わーっと駆け回り飛び出そうとする思考の嵐を冷静に文章に書き起こしてみると、世間的イメージとは真逆に走っているのがなんだか面白いですね。

話を本題に戻しまして、テクノロジーは義足が再び歩くことを可能にするように何かを可能にする、可能性を拡げるという力を持っている増やす方向のエネルギーに見える一方で、クリエイティブには、たとえばUIなどのデザインがユーザ対してある単一の行動を要求するように頭の中の選択肢を絞り込む、減らす方向のエネルギーに見えるな、と思ったのです。それは写真などについても同様で、素敵だなと思う写真はフレームの中に何を写すかと同じくらい、場合によってはそれよりもさらに、何を写さないかが強烈に意識されているように思うので、僕個人の好みのジャンルの問題もあるのだとは思うのですがクリエイティブって引き算して引き算して本質を残すような、減らすエネルギーが優位な営みに見えるな、と感じたのでした。この対比には資本主義的なマキシマリズムと、近年盛り上がってきたミニマリズムの対比が裏に隠れていたりします(ミニマリズムの本を眺めているときにぼーっと考えていたトピックなのです)。

ここまで考えてみて自分の思考が急に疑わしくなったので、クリエイティブは本当に減らす方向だけなのか?と気になりました。UIやプロダクトデザインなどのデザインに近い領域は、モノと向き合った人間がきちんとモノを扱えることが至上命題となるのでユーザに多義的解釈を許さない設計が重要になるように思います。ただ、クリエイティブという広い概念の中には絵画のような芸術も含まれており、たとえば絵画は時代背景や宗教の教えを明確に伝達するような絞り込む力が優位なものもあると思いますが、現代アートのように向き合う人のレンズ自体を問うような、拡げていく力を持ったものもあるのかなと気づいたのです。

そこから思考は一気にジャンプして、クリエイティブな領域で表現が持つエネルギーについて、現時点の自分なりの仮定に辿り着きます。「表現には受け手をあるひとつのメッセージへと連れていく収束的で閉じられた減らす方向のエネルギーが存在する。また、表現にはさまざまな立場の受け手を彼ら/彼女らの経験と結合するかたちで旅に連れていく発散的で開かれた増やす方向のエネルギーが存在する」という仮説です。

表現の結果として生まれる創作物には、この二つの力のうち片方だけが強烈なこともあれば、どちらかが優位ではありつつも両者が併存しているもの、また、奇跡的なバランスで両者が調和しているものなどさまざまなかたちがあるのだとは思います。今回こうした仮定を置くことで、自分が普段絵を描くときに無意識に任せている部分について、これまで自覚されなかったものの進んでいた道の性質のひとつの姿が開かれた力と閉じた力がせめぎ合いながらも調和するような表現なのかも、と考えることができました。

正解がない、人の数だけ道がある、そういう世界なので自分が何を大事にして何に近づいて行きたいのか、わずかでも輪郭を捕まえるために言葉に置き換えてみる試みを常日頃意識しているのですが、今回はテクノロジーとクリエイティブというふたつの概念の関係性がヒントになるのではと思ったので勢いのまま文章を書きました。既に述べたように勢いで書いておりますので、文章や言語化されたものとしては致命的な論理の破綻があるかもしれませんが、その辺りの回収や更なる思考の旅は未来の自分にパスすることにします。

ここまで付き合ってくださった愛すべき好事家の皆様(がおられるかわかりませんが)、心より御礼申し上げます。専門的な勉強をしたわけではない領域に自分なりの足場を作りながらの論考を試みている段階ですので見苦しい姿をお見せしている部分も大なり小なりあるのかなとは思いますが、どうぞ今後とも見守っていただけると嬉しいです。また、カバー画像はみんなのフォトギャラリーよりお借りしました、素敵な画像をありがとうございました。それでは皆様、ごきげんよう。

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