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人間「ありのまま」相手を見ることはできるのか?

こんにちは、イラストレーターのマルオです。

今日は数日前に友人と話していて、
ふとこのテーマについて
自分でも掘り下げたいなと
思ったことを書いてみますね。

インナーチャイルドとは?

「インナーチャイルド」という言葉を
ご存知でしょうか。

自分の幼少期〜思春期の体験から、
人はいろいろな思いを
心のうちに抱えて生きるようになります。

本当はこうしたかった、とか
ああして欲しかった、とか。
「私は絶対こうならない」、みたいな
反発心とか。

その思いを抱えているのが、
いわゆるインナーチャイルドという
「心の中の存在」です。

自分の中の小さな子ども的存在が、
小さいときに(ほとんどの場合家庭で)
刷り込まれた思いや体験を
ずっと抱えたまま心の中にいる。

心理学の分野では有名な概念かもしれません。

自分の満たされなかった思い、
願望なんかを抱えたまま
私達は大人になっているんです。
多くの場合、無自覚に。

代用行為


満たされない思い、叶えたかった願望。
それらを持ったまま親になった場合、
無自覚に自分がしてもらえなかったことや
して欲しかったこと(=空いている穴)を。

自分が子供を持った場合、
子どもに与えることで必死で
埋めようとします。

いわゆる代用行為ですね。

そして多くの場合は、
本人的にはそれを「愛」だと思って
子どもに与える
ようです。

あなたには
こうなってほしいのよ。
こんな思いをして欲しくないのよ。

そういう形で。

そう考えると、
少しの歪みもない視点を持って
人と、子どもと関わることって
案外とても難しいことなのかも
しれないですね。

特に我が子の場合、愛情がある故に
自分の思いをありったけ乗せて
子どもを見てしまう。

それを愛だと思って。
子どものためだと思って。

それが愛情を人に抱き、示す「人間」で
あることのジレンマ
なのかもしれません。

それは本当のところでは、
我が子のインナーチャイルドにまた新たな
種を植え付ける世代間連鎖となるものです。

私達は必死に、愛を持って、
逃れたくて、皮肉にも歪んだ形の鎖を
繋いでしまうのかもしれません。

我が子であっても
一人の人間として、
自分とは違う人格として、
ある意味切り離して その人単体として
なんの思いも乗せずに見ることが
できたとしたら。

その子はどんな人間なんだろうか。
どんな素敵なところがある人なんだろうか。

そういう目で見ていきたいなと
個人的には思います。

私にも中2と小2の息子がいて
それぞれに苦手も抱えていて。でも
素敵なところもたくさんある人たちです。

そういう目でわが子をはじめ、
周りの人も見ていきたいなと思います。

私はあまり自分と子どもを同化して
見ない方だけれど、普段からどうしても
そうしてしまう癖があったとしても、

ちょっと 自分の乗せたい価値観だったり
満たされなかった思いなんかを横に置いて
この子はどんな人間なんだろう?
とまっさらな目で見てみてほしいなと。

もしくは、
私はどんな期待を乗せているんだろう、
どんな満たされない感情の代用にして
いるんだろう、という視点を持つ。

常に相手ではなく
自分自身の中にあるものを
振り返ることで見つかることがある。

自分のしている「当たり前」に
疑問を持つ姿勢が、新たな自分を知り
認識を広げる手掛かりになるのでは
ないかと。

伝えたいことがちゃんと伝わるように
書けたかな?分かりませんが、
60点でも良しとします。


今日もお読みくださりありがとうございます!

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