絵の具

あの時こうしていたらどうなったのだろうか?と考えることは少なくない。
あの時、こう言ったらどう作用したのだろうか?
しかし後からそれらを考えたところで、自分が想像できる範囲内でしかその答えは出てこない。自分が想像にも寄らない答えは、実際にその相手しか持ち合わせていない。もしくはつまらない回答が返ってくるだけだ。予想もしないところに着地した時、それが一番より良い選択だったのではないのかと考えるのが正しいのかもしれない。

小学6年生だったか、学校を出て、風景を描きにいくという時間があった。
外で線画を描いて、学校に戻ってから色塗りをした。
鉛筆で葉っぱに「うすいみどり」とか、建物に「白っぽいベージュ」とか、
これまた鉛筆が本来出せる色よりもはるかに薄い鉛色で、
得意な教科のテストを夢中で解いている時よりもはるかに力を抜いて書いた。

学校に戻ってきて色塗りを始めた。
僕のパレットはだいぶ汚れていたし、他の男子生徒のパレットも汚れていた、
稀に綺麗なパレットを使っている男子生徒もいたが、女子生徒のそれほど白くはなかった。女子生徒ほど白いパレットを使っている、男子生徒は存在しなかったということだ。女子生徒の綺麗なパレットが羨ましかった。どうしてあんなにも白く保つことができるのだろうかといつも疑問に思ったものだ。女子生徒というのは生まれながらにして、そうなんだろうと、その時はそれで片付けたが、今となっては親に口うるさく言われていたんだろうとか、自身で女子の立ち振る舞い方に気が付いてやっていたかのどちらかなんだろうなと終に答えに近いものを見つけることができた。パレットを出す機会がある度に僕は「あぁ、本当はパレットを綺麗にしておける人間が素晴らしい人間なんだろうな」とは思いつつも一度たりとも真っ白になるまで洗うことはなかった。

とびきり綺麗なパレットを持った男子生徒が僕の隣に座っていた。
もしも卒業文集に"パレット綺麗な人ランキング"があったら、間違いなく彼が1番であっただろう。小学生の時というのは大抵「男・女」と席が横並びになっているものだが、僕のクラスの人数は偶数で1人だけ男子生徒が多かった。席にパレットだけを置いてこのクラスの男女の人数を判断せよと問われたならば、誰しも男女半々となるような回答をしたと思う。男子16人・女子14人のクラスであったため、皆、男女15人ずつと答えるということだ。かの有名なシャーロックホームズは「陰毛が引き出しに入っていた」と言って男子が1名多いのを見事に当てたという説もあるが、僕はそいつの生えてないのを知っているので、ここだけの話だがシャーロックホームズはデタラメ野郎なのである。これは読者の方との秘密にしておきたい。(※彼が小6にして生えていないことをです。)

色塗りを始めてから10分程経ったくらいだったか、
隣の彼は僕に「絵の具をもらえないか」と頼んできた。
もらえないかという言葉に一瞬「なんだ?」とも思ったが、1秒後に「借りたい」という意味であると解釈した僕は「何色?」と聞き返した。あたかも僕が絵の具を貸すことは知っていたかの如く「肌色〜」と答えた。当時映画のアバターが流行っていたため、なんとなく青色を渡してみた。すると彼はぶちゅっと真白なパレットに青色の絵の具を出した。親指の爪というには太く長すぎるパレットの小さい四角部分。鍵盤というには凹みすぎている小さい四角の部分。ではなく、色を混ぜたり色の濃淡を調整したりする時に使う広い部屋に直接出した。初めからこっちに出すのはちょっとエッチだなと感じた。その後、彼は小筆にチっと水をとり、青を溶かした。そしてなんの迷いもなく画用紙の人肌に青色を塗ろうとした。僕は「青色」を「うすだいだい」として使おうとしている彼のことをおかしいと思った。
すると、完全に手の止まった僕の視線を感じたのか、彼はふとこちらを見て「あぁごめん、返してなかったね」と青色のチューブを渡してきた。「そういうことで見ていたわけではない」とは言えず、返却されたチューブ見た。彼のことを"おかしい"と思ったほぼ同時に自分の"目がおかしくなった"のではないかという考えも過ぎったのだ。「うすだいだい」のことが「あお」に見えるように成ったのではないかと。しかし、そんな都合のいい仮説はすぐに崩れた。
チューブにはしっかり「あお」と書かれていた。ホッとした。自分がおかしいのではなく、コイツがおかしかったのだ。怖くなった。意味がわからなかった。
そして僕を恐怖の谷底へと突き落とした、決定打がある。
「肌色」と言った彼のパレットには既に「うすだいだい」が広げられていた。

僕は完全に止まった。猛獣に睨みつけられ、動けなくなってしまった小動物のように。その時彼は僕を見ていた。"「うすだいだい」に気づいた僕"を見ていた。
僕は後悔した。あの時、おとなしく「うすだいだい」を渡すべきだったのだ。
チョけたばかりに、人の怖さを垣間見る羽目になってしまったのだ。
「うすだいだい」を渡していたらどうなっただろう。彼はパレットに絵の具を出し「ありがとう」と返してくれたのだろうか。はたまた「え、それ違うよ」と「あお」を渡さなければいけない必然ルートだったのだろうか。ぐるぐるとたくさんの可能性を考え始め、今にも迷子になるという寸前で「冗談だよ」と聞こえた。彼は少し笑っていた。意識が戻り、彼の顔をはっきり見ることができた。タイガーウッズみたいな顔だった。そういえば、今まで彼の顔に焦点を合わせたことはなかった。タイガーウッズやん。こいつタイガーウッズみたいな顔してんなと思うと、さっきまでの怖さはどんどん薄れていった。老けすぎやろ、小学生にしてはよ。でもよく見たら全然老けてない。なんじゃコイツ。段々と意識がこちらに戻ってくると彼は言った。
「脅かして悪かったよ、青色やな渡してきたの。知ってるよ。その〜、考えてたんや。普通に今まで通り風景画書いて塗っても面白くないし、どうしよっかな〜って。その時にね、自分の頭の中に無いものを人から貰って、それでなんとかしようって思ったんや。選択を自分の中でずーっとしていったら、想像できるもんしか作れんやろ。でもさ、人にこれでやってくださいって言われたら、自分の想像外のものができるやんか。そこに自分の意思を後から入れて説明できるように後付けで作る。そういうちょっとしたスパイスが欲しかったんだよ。」彼は優しく説明した。
僕は何も言えなかった。一瞬でも彼を疑った自分をとても恥ずかしいものだと感じた。そういう低次元のものではなかったのだ。「尊敬」という言葉は知らず、実際に体験したことは無かったのだが、最初の尊敬はいつかと振り返って考えてみればこの時だったのかもしれない。彼は付け足した「まぁ、もちろん肌色って言って必ず薄橙以外を渡してくる保証なんかないんだけどね。たまたま言ってみたら1発目で薄橙以外が来たから俺もびっくりしたよ。顔には出さなかったけどね。」
「ありがとう青色、これで面白いものができそうだよ」と言って、彼は塗りかけの人間をまた青色で塗り始めた。空の色はもちろん「うすだいだい」だった。
完成した絵は、次の日の午後に提出することになっており、彼は意気揚々と先生に提出するため前へ出た。

こんなふざけたもの認めませんと先生にやり直しをくらっていた。

※(僕も小6の時には生えていませんでした)

にゃーん