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『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(3)

『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(1)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(2)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(3)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(4)
『アウシュヴィッツ「ガス室」の真実』に真実はあるのか?(5)

この本、やたらと「後で述べますが」が多いんですよね。全部読んで欲しいための策略でしょうか? こっちは多くの話題についてはすでに色々と記事にしているので、ネットですからリンク貼れば済むので簡単なんですけど、本てその点で不便ですよね。せめてどこで述べてるのかくらい言え!とか思ったりするんですけど。では早速3回目。

……とその前に、今回はかなり長いと最初に注意をしておきます。一章を一記事で批判・反論する方針のためですが、目次を見ると、第三章が最も長いようなので、その分批判・反論も長くなってしまっているとご了解ください。

また、今回から、西岡本からの引用は、引用欄下に「西岡本」と示して、他の引用との区別を簡単にしておきます。


「第3章「ガス室」は実在したか?」について

「「定説」側は何故、「ユダヤ人絶滅計画」に固執するのか」について

前回述べた通り、西岡は「ユダヤ人絶滅はガス室だけだ」のように定式化していましたが、それは誤解であると指摘しています。「ユダヤ人問題の最終解決」とはユダヤ人を全滅させることのみを意味する、という理解はよくあるのですが、それは結果的にそうなったというだけのことであって、大きく考えれば、手段を問わず、どうにかしてユダヤ人をドイツ支配下から排除することを意味すると述べました。また、ゲーリングの1941年7月31日の書簡に書かれていた内容と、「ユダヤ人絶滅」は違うということは西岡ら否定派はよく知っているはずです。しかし、西岡の言うような「定説側」の人で、ゲーリングからハイドリヒ宛の書簡を否定している人など聞いたこともありません。つまり、そこに書かれた、

1939年1月24日付の政令で貴殿に委ねられた、現在の状況下で可能な限り有利な方法で移民と疎開によってユダヤ人問題を解決するという任務の補足として、私はここに、ヨーロッパにおけるドイツの勢力範囲内でユダヤ人問題を全面的に解決するために、組織的、実質的、財政的な観点から必要なすべての準備を行うよう貴殿に依頼する。

この文章をどう読むべきかについての議論はしませんが、しかしここに書いてあるのはあくまでもその目的は「ユダヤ人問題を解決する」ことであり、「計画」とはそもそもが「その目的を達成すること」を対象としたものなのではあっても、それが定説側の主張として「ガス室でのユダヤ人殺害」のみを意味するわけではありません。

それまでのナチスドイツのやってきたことを顧みると、ナチスドイツは政権を得たほとんど最初から、ユダヤ人に出て行ってもらおうとしています。その最初の方策の一つであるハーヴァラ協定は1933年8月です。ナチスドイツのユダヤ人問題に対する方針は、ドイツ人の生活圏からユダヤ人を排除することであって、殺すことだけを目的としていたのではありません。何度も言いますが殺すことは単なる手段の一つでしかないのです。あくまでも、生活圏からの排除であることは、否定派が捏造の疑いをかけるヴァンゼー議定書にも明確に書いてあります。

親衛隊全国指導者とドイツ警察長官(保安警察長官とSD)は、地理的な境界線に関係なく、ユダヤ人問題の最終的な解決のための公式な中央処理を任されていた。続いて、治安警察とSDの責任者が、これまでに行われてきた敵との戦いについて短い報告を行った。要点は下記の通りである。

a) ドイツ国民の生活のあらゆる領域からユダヤ人を追放すること。

b) ドイツ国民の生活空間からユダヤ人を追放すること。

https://note.com/msんn2400/n/nc1abb7fad333

ナチスドイツが主張した「ユダヤ人問題の最終解決」に定説側が固執することそれ自体は、ホロコーストを研究することそれ自体が定説側のやってることなのですから、そこが学術研究の主たるテーマ・中心になるのは当たり前の話ですが、決してガス室にのみ固執しているのではありません。はっきりしていることは、否定派こそが「ガス室」に固執しているのです。だからこそ、西岡はこの章のタイトル、あるいは本のタイトルに「ガス室」を明記しているんじゃないのでしょうか?


「現存する「ガス室」は本当にガス室か?」について

このように、「ガス室大量殺人」については、客観的な物証が決定的に欠如しているのです。

西岡本

いいえ。何度でも示しますが、その証拠の全部を網羅できてなくともこんなにあります。


「連合国はアウシュヴィッツを検証していない」について

ところが、そのアウシュヴィッツについて、アメリカやイギリスは戦後、ニュールンベルク裁判でドイツを裁いた時、実は何の実地検分もしていなかったのです(2)。

西岡本

連合国、と言うかニュルンベルク裁判はそうでしょうが、地元ポーランドの調査委員会はポーランドでの裁判のためにアウシュヴィッツを実地見聞しています

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0553.shtml

実地見聞時の写真は、西岡氏自身も所有しているプレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』に何枚も掲載されています(しかし自分で翻訳しておいてあれですけど、探すのがめんどくさくていつもこの一枚しか紹介できていません。しかし西岡は本自体を持っているのですから、Webページよりもはるかに閲覧性の高い物理的な本なら、簡単にその実地見聞時の写真を見つけられるはずです)。ちなみに帽子かぶって説明しているらしき人物は、審査判事を務めたヤン・ゼーンだそうです。

このことについて、当時のアメリカ当局者は、「ロシア人(ソ連のこと)が許可しなかったので、調査ができなかった」等と説明していますが、それが本当なら、当時ポーランドを支配していたソ連は何故、ポーランドで第三国が実地調査することを許さなかったのでしょうか。また、「ロシア人が許可しなかった」という、そのアメリカ当局者の説明が本当かどうかも分かりません。いずれにせよ、アメリカやイギリスを含めた連合国は、当時、その理由はともかくとして、アウシュヴィッツなどに「ガス室」が本当に存在したかどうかの科学的または司法的調査を全くしていなかったのです。

西岡本

しばしばネットでは、ソ連はアウシュヴィッツに部外者の立ち入りを10年くらい禁止していた、のような話をする人がいるのですが、ソースが全然分かりません。もしかしたらこの西岡本が出所なのかもしれませんが、西岡自身、「「ロシア人(ソ連のこと)が許可しなかったので、調査ができなかった」等と説明してい」たことを示すソースを示していませんね。否定派的にはそこそこ大事な話だと思うのですが、どうしてその出典を示さないのか、意味がわかりません。一般的に知られている話ならともかく、ほとんどの人がそんなの知らない話だと思うので、出典を示すのは重要なことだと思いますが。

ちなみに、アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館は1947年から博物館として公開されているそうです。

博物館の開館式は1947年6月14日に行われ、元囚人やその親族、多くのポーランドやユダヤのコミュニティや政治団体の代表団など、数万人が出席した。式典は、11号棟の中庭でのカトリック、4号棟でのユダヤ教、11号棟内での東方正教会とルーテル派の宗教礼拝で始まった。礼拝の後、ポーランド首相ヨゼフ・チランキェヴィッチとポーランドユダヤ人中央委員会を代表する国会議員ヨゼフ・サクの挨拶があった。その後、参加者はブロック11の中庭にある「死の壁」に花輪を捧げ、チランキエヴィチ首相は博物館の開館を宣言した。

7月2日、ポーランド議会は博物館を設立する法律を可決した。その法律には、「オシフィエンチムの旧ナチ強制収容所の敷地は、そこで発見されたすべての建物と設備とともに、ポーランド人およびその他の民族の殉教の記念碑として永久に保存されるものとする。. . .オシフィエンチム・ブレジンカ国立博物館は、ナチスの犯罪に関連する証拠や資料を収集・収集し、一般に公開し、科学的な方法で研究する任務を担っている」運営を規定する法律が成立する前に開館するという、いささか非典型的なこの状況は、ポーランドの政治犯が初めて移送されてきた7周年にあたる6月14日に開館式典を行おうとしたためであった。開館を延期したくなかった当局は、必要な法律が成立する前に博物館の運営を開始することを決定した。

https://www.auschwitz.org/en/museum/history-of-the-memorial/from-liberation-to-the-opening-of-the-memorial/the-opening-of-the-museum/

博物館開いたのに、一般人、あるいは非共産圏の外国人には公開しなかったのでしょうか? 

で、「科学的または司法的調査を全くしていなかった」については、まず司法的調査は実地見聞していたこともはっきりしていますから嘘です。当時ポーランドはソ連の傀儡になっていたので、ソ連は当然連合国ですからね。科学的調査も行われています。

否定派が「アウシュヴィッツの世界初の法医学調査はロイヒター調査だ」のように主張した後にこれを示すと、途端に「それはシラミ駆除をしたから検出されたんだ!」と話題を変えます。その前に誤った主張をしたことを認めて欲しいのですが、そんな人はいません。


「「ガス室」と「絶滅収容所」」について

この項は、大筋では間違ってないと思うので飛ばします。ポーランドに絶滅収容所があってドイツにはなかった、と述べているだけです。まぁ大筋では合ってます。マーリー・トロステネツ絶滅収容所はほとんど知られていないですしね。これはベラルーシのミンスク郊外にあったそうです。他にも絶滅収容所は数箇所あるようです。ただしそれらの主要な絶滅収容所でない絶滅収容所には殺人ガス室はなかったようです。


「「絶滅収容所」とは何か」について

先ず、それら六つの収容所の名前をご紹介したいと思います。それらは、アウシュヴィッツ(Auschwitz)、マイダネック(Majdanek)、ソビボル(Sobibor)、ヘルムノ(Chelmno)、トレブリンカ(Treblinka)、ペルゼック(Belzec)ですが、これらの発音は、英語、ドイツ語、ポーランド語の内で、日本で定着していると思われるものを採用したものですので、これら三か国語の発音が混在しています(地名の発音など「論争」する気はありませんので)。

西岡本

私は、日本語Wikipediaの表記に出来るだけ従うようにしています。「アウシュヴィッツ」はパソコンキーボードの「V」と「B」が隣なのでよく打ち間違えてしまいますが、それ以外はマイダネク、ソビボル、ヘウムノ、トレブリンカ、ベウジェツ、と書くようにしています。Google検索だと多少表記が違っても表記の揺れを検知して大体検索はしてくれますし、西岡のように表記を変えても問題はほぼありません。私は「わかればそれで良い派」なので、私も読み方書き方で論争する気はありません。

この中で一番有名な「アウシュヴィッツ」は、先ほども触れたように、実は、前後して設けられた二つの収容所から成っています

西岡本

こんな細かい話に突っ込むのも、読み方書き方の話と似たようなものなので別にどうでもいいとも言えるのですが、主要な囚人の収容先としては確かに二つの収容所としていいとは思いますが、三つ目としてよく挙げられるのはいわゆるモノヴィッツ収容所(アウシュヴィッツ第3収容所)です。I.G.ファーベン工場が近くに作られた時に、その工場で働く囚人用に作られた収容所で、巨大な工場ですから、人数こそ知りませんが相当な数の囚人がいたと思われます。以下の図を見ても分かるように、モノヴィッツは第一収容所よりも広いのです。

他には副収容所として、50くらいの収容所が点在していたそうです。西岡はせっかくドイツに旅行してアウシュヴィッツ収容所を訪問しているのに、こんなことも知らないようです。ライスコ(Rajsko)収容所は確か、元親衛隊員の否定派であるティース・クリストファーゼンがいた収容所だと記憶しますが、西岡もクリストファーゼンを当然知ってると思うんですけどね。

このように、「定説」は、第二次大戦中、ドイツがボーランドに「絶減収容所」を六つ作り、そこで「ガス室」による大量殺人を実行したと主張します。ところが、これらの収容所が存在したこと自体は事実ですが、それらの収容所が「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたことを証明する文書等はありません

西岡本

果たしてそうなのでしょうか? 否定派は、当時の不都合な文書資料を捏造扱いしてしまいますので、こうした「証拠なんかない!」みたいな否定派の主張は、その捏造と断定された文書まで考慮する必要があります。西岡のような否定派の主張は決して鵜呑みにはできないことを重々頭に入れておかないところっと騙されてしまいます。

例えば、その一つは、否定派が絶対に捏造との主張を譲らない以下です。

ユダヤ人の再定住行動

アウシュビッツ収容所は、ユダヤ人問題を解決するための特別な任務を担っている。ここでは、最新の対策によって、総統の命令(Führerbefehls)をできるだけ短時間で、しかも大きな混乱もなく実行することができる

いわゆるユダヤ人の「再定住行動」は、次のように進行する。
<後略>

否定派は、上のリンク先で示しているように、ありとあらゆるクレームをつけて、グリクシュ文書を否定します。「間違ったことが書いてあるから嘘である」論法です。しかしそこで反論されている通り、「間違ったことが書いてある」理由を「嘘・捏造だから」と説明する必要がない、と考えることもできるのに、否定派は絶対にそれをしようとはしません。さらに、偽造文書ではあり得そうになさそうなことを示す分析も上の記事の中にあります。それでも否定派は認めようとはしません。

何にしても、グリクシュ文書は、アウシュヴィッツのガス室が「「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたことを証明する文書」であることを示しています。「最新の対策によって、総統の命令(Führerbefehls)をできるだけ短時間で、しかも大きな混乱もなく実行することができる」と書いてあり、文書は、ユダヤ人のガス室での大量殺戮と火葬場での処理について簡潔かつ明確に説明しています。

いわゆるラインハルト作戦収容所である、ベウジェツ、ソビボル、トレブリンカ収容所については、収容所建物敷地全てを証拠隠滅したように、文書資料が残っている方がおかしいでしょう。しかしアウシュヴィッツ収容所ではガス室を作っていたことを示す文書は、建設関連文書が証拠隠滅されなかったために、大量のそれら関連文書の中に見つかっています。それはまだ読んでいない、西岡本の「後で述べます」部分で語られるのでしょうが、西岡らはそれら文書を「証拠にならない」として否定した上で、「「ユダヤ人絶滅」を目的に建設されたことを証明する文書等はありません」などと寝言・戯言を言っているのです。

例えば、皆さんは、連合国が戦後ドイツを説いた際、多くのドイツ人被疑者に拷問を加え「自白」を得ていたことをご存知でしょうか?もう一度、言いましょう。連合国は、多くのドイツ人被疑者から拷問で「自白」を得ていたのです(13)
もちろん、全ての自白がそうだったなどと言うつもりはありません。しかし、戦後、連合国によってドイツ人の「証言」が集められた時の状況がこのようなものであったことは、知っておかなければなりません(この連合国による拷問の事実はアメリカの議会記録にはっきりと記録されており、日本では、国会図書館でこの記録を閲覧出来ます)。

西岡本

この話はもちろん、まだ読んでない「西岡本の「後で述べます」部分」にあるのだと思いますが、今回ここをはっきり読んでちょっと呆れてしまいました。彼は、私との議論の際に議会記録ではなく「公聴会の記録」と言っていたはずだからです。その当時のことを説明するがややこしいので説明しませんが、ここでははっきり「議会記録」と書いてただなんて…唖然。

ここにも書きましたが、西岡自身は国会図書館になんて行ってないのです。行ったのは木村愛二です。私との議論の際には「もしかしたら木村がそれを入手したのはアメリカかも」だなんて惚けたことを語っていたほどです。また、私もこの件は「後で述べます」(笑)


「どんな「毒ガス」が使われたというのか」について

「定説」側論者によると、六つあった「絶減収容所」の内、先ず、ソビボル、ヘルムノ、トレプリンカ、ベルゼックの四か所では、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」が使われたのだそうです(5)(18)(19)(20)ところが、車に詳しい方はすぐお気付きだと思いますが、これは非常におかしな話なのです。何故なら、ディーゼル・エンジンというものは、ガソリン・エンジンとは違って、一酸化炭素を極く微量しか排出しないことが、その工学的な特徴だからです(21)『ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させる「ガス室」というのは、工学的、医学的に、不可能ではないのかも知れませんが、不合理極まりないものです。ガソリン・エンジンの方がはるかに多量の一酸化炭素を排出するのに、それを使わなかった、というのですから。

西岡本

この件については、過去に西岡や木村を相手にしていた『対抗言論』サイトにあったログ記録を読んで、私も西岡の主張に若干同意していました。おっしゃる通り、一酸化炭素をあまり排出しないディーゼルを大量殺戮に使うのは合理性に欠けていると思っていたからです。対抗言論では、「一酸化炭素を多く排出させるためにエンジンに負荷をかけすぎると故障しやすくなるが、当時はいくらでもソ連製戦車から鹵獲できたのだから問題はなかった」などと論者が言ってましたが、ガソリンエンジンもあるのにそうまでしてディーゼルにこだわる理由がありません。対抗言論ではどうやら当時の定説重視の路線を取っていたのと、否定説への反論意識が強すぎて、もしかしたらほんとはガソリンエンジンだったのでは?との考えにまでは至らなかったようです。確かに修正主義者のディーゼル否定論論者であったベルクの議論には問題はあったようではありますが。

しかし、まず言っておかないといけないことには、ラインハルト作戦収容所の一つであるソビボルでは、明確にガソリンエンジンが使われたというのがどうやらとっくの昔に定説になっていたことです。

さて、ソビボルに話を移そう。幸運なことに、そこにガス化エンジンを個人的に設置した人物の証言がある。それは、親衛隊軍曹エーリッヒ・フックスで、1963年4月8日に証言している。

「私たちはモーターを降ろしました。ロシア製の重いベンジンエンジンで、少なくとも200馬力はありました。コンクリートの基礎の上にエンジンを据え付け、排気管とチューブの接続をセットしました。」

だから、ソビボルの場合は、エンジンがガソリンで動いていたという明確な証拠がある

「ホロコーストにおける「ディーゼルエンジン問題」について(2):ディーゼルは関係はない?」より。

ベンジンエンジンとはドイツ語ではガソリンエンジンを意味します。

西岡本の時代にはまだディーゼルエンジンがユダヤ人絶滅に使われたと書かれることが多かったようなのですが、現在では裁判証言の精査などから、ガソリンエンジンが使われたと考えるべき、となっているようです。

一般的なホロコーストの学者の中には、エンジンの燃料の詳細があまりに些細であるため、あまり注意を払わない人や、単にゲルシュタインの有名な発言に頼っている人がいることは事実である[64]。しかし、専門家にとっては、ディーゼルエンジンはガソリンエンジンに取って代わられているのである。ピーター・ヴィッテ[65]、ジュール・シェルヴィス[66]、クリストファー・ブラウニング[67]、マーティン・ギルバート[68]はみな、直接的証拠に基づいて、ラインハルトの収容所にガソリンエンジンを置くことを望んでいることが証明されている。このように、否定派が好むディーゼルの作戦は、証拠を客観的に見ることに無関係であることが証明されたのである。

このように、定説は修正されているのに、修正主義者は修正主義内での定説(定説への反論内容及び攻撃対象とする定説の内容)を修正しない、ようです。今でも西岡はディーゼル説にこだわってますからね。


「第一アウシュヴィッツに展示される「ガス室」」について

このチクロンBというのは、猛毒の青酸ガスをパルプのかけらなどに吸収または吸着させたもので、当時のドイツでは、倉庫や船の害虫駆除にこれが使われていました(後述)。そうした青酸ガスを含んだパルプ片などが缶に入っていて、缶を開けると、そのパルプ片などから青酸ガスが徐々に遊離するというのが、この薬剤(殺虫剤)の仕組です(23)。チクロンBからの青酸ガス遊離は加熱によって早まりますが、こうした問題については後ほどお話ししましょう(24)。とにかく、それを使ったというのです。

西岡本

パルプとは、「木材などの植物原料を機械的または化学的に処理してセルロースを取り出した状態のもの」(コトバンク)ですが、私が知っているペレット状のチクロンBは珪藻土、または硫酸カルシウム(石膏)を個体支持体とするもので、パルプと言えるのは以下の写真のようなディスク型だと思うんですけどね。細かい話なので別にいいですけど。

ただ、これらの作業風景での写真で作業員がガスマスクをつけていることには注目する必要があります。以下は、Amazonプライムビデオにある『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』第1話からのスクショ(させてもらえないのでスマホで撮ったw)した作業風景です。

缶を開けるところから、所定の場所に撒くところまで、作業員は常にガスマスクをしています。何が言いたいかというと、「青酸ガスが徐々に遊離する」と表現するのは誤解を招くということです。否定論者によってはあたかもガスマスクも必要ないほど徐々にしか遊離しないかのように述べる人もいるからです(但し、密閉空間でないなら慣れればガスマスクは要らなかったかもしれません)。西岡はここでも「後ほどお話し」と述べていますので私もはその詳細は後で述べると思います。


「「ガス室」の目の前にドイツ人の病院がある」について

先ず、この建物(「第一死体焼却棟」)は、ドイツ人用の病院の真ん前にあります(前頁写真)。距離は、大体二〇メートルくらいです。こんな場所に「ガス室」を作ったのでは、「ガス室」での処刑後、内部を換気するために「ガス室」内部の青酸ガスを排気した時、一体どんなことが起こるか想像して頂きたいと思います。そうです。真向かいの病院にいるドイツ人たちが、生命の危険にさらされてしまうはずなこの建物が処刑用ガス室の建物だったとしたら、その位置はこんなにも馬鹿げたものなのですが、それにも拘らず、ポーランド当局は戦後ずっと、この建造物を「ガス室」と言い続けてきたのです。

西岡本

一応確かめてみましょう。Googleマップを使えば簡単です。

かなり適当に距離測定行っただけですけど、確かに大体20メートルくらいですね。大体ですけど、JRなどの普通列車の車両一両分くらい、と考えていただいていいかと思います。

で、否定派がこれだけ離れていてどれだけ安全か・危険かをちゃんと計算したというのを見たことがありません。まぁそれはいいです、私も大気拡散方程式なんか使えませんし。で、ですね、もしですね、もし仮に病院の患者の命に関わるほど危険なのであれば、ガス室での処刑をするのであれば、その際には患者を退避させていただろうと思うんですけど。あるいはもっと簡単に、窓を閉め切ったでしょう。

え? 患者の退避なんて面倒なことをするわけがないって? いや、患者の退避を実際にしていたと言っているのではありません。もし危険ならば、です。この第一ガス室では、ユダヤ人絶滅は行われたとしてもわずかでしょうし、毎日ガス処刑なんてできたわけもないのです。死体の火葬に時間がかかることは否定派がよく知っているはずです。せめて3日以上は開けないと、死体が溢れかえってしまいます。1週間程度開けるとすれば、毎回患者を退避させる程度、それほど難しくはなかったでしょう。

でも、そんなに危険だったとは考えられません。否定派が全然わかってないのは、大気中への拡散なのですから、そこには「空気がある」ってことです。青酸ガスは大気中へ放出されると、空気と混ざってその濃度を低下させます。外なのですから、空気の量は無限大です。無限大の量の空気とそれに比べればほんのわずかな量の青酸ガスが混ざったからと言って危険でしょうか? 否定派が本当に何も考えていないことがよくわかる話です。

実際には、一瞬で毒ガスの濃度が薄まるわけではないので、アウシュヴィッツでは以下のような警告も行われました。

本日発生した青酸ガス中毒の軽い症状を伴う体調不良の事例から、ガス処理に参加したすべての者とその他のSS隊員に、特に、マスクを着用していないSSがガス処理の部屋を開けるときには、少なくとも5時間待ち、部屋から少なくとも15メートル離れているように警告する必要がある。さらに、風向きにも特に注意しなければならない。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0201.shtml

この警告書は、古くはチクロンBを使ったガス処刑の一つの証拠とみなされたこともありましたが、よく知られている通りアウシュヴィッツではチクロンを使う害虫駆除室が複数あったので、それと区別できないため、ガス処刑の証拠にはなりません(但し、この文書に「Vergasung」の表現が出てくることは、仮にこれが害虫駆除室のことを意味するとしても、チクロンガスを使っていたことを示すという意味では、示唆的なものとして覚えておくべきだと思う)。

しかし、軽い症状ともあり、その事例となった人がどれほどその「ガス室」から近かったかもわからないし、状況も全く不明のため、「病院から20メートル」について何か述べることができる文書でもありません。でも、仮に危険性を考えるべきだとしても、病院の窓を閉じたらいいだけだと思います。しかし確かに病院から近いので、病院から第一ガス室での処刑の様子を見てた人もいたようです。

1942年、私の記憶が間違っていなければ、1943年かもしれませんが、秋の終わりか初めに、私は、コッホが、火葬場の開口部からガスを流して、約200名のユダヤ人のガス処刑に積極的に参加しているのを見ました。ガス処刑は古い火葬場(註:基幹収容所のクレマ1のことだと思われるので稼働時期を考慮すれば1942年だろう)で行われました。私は、道路の反対側の建物に設置されたSSの診療所からその様子を見ていましたが、すべてをはっきりと見ていました。火葬場の前に停車していた2台の車は、SS隊員によって降ろされました。荷降ろしは、オーマイヤー、グラブナー、キシュナー、その他、今はこの部屋にいない政治部の多くの人たちが立ち会って行われました。囚人は服を脱がされた後、火葬場に運ばれました。コッホは2人のSSを伴って中に入りました。ヴォースニッツカと、私の記憶が間違っていなければ、テューア親衛隊伍長です。全員がガスマスクをつけて火葬場に入りました。彼らはガス缶を開けて中にガスを注入し、火葬場の開口部を閉めて階下に降りていった。火葬場の中からは、ガスをかけられている人たちの耳を疑うような悲鳴が聞こえてきた。火葬場の横に停めてあった車のエンジンをすぐにかけて、叫び声を消した。数分後、ガス室のガスを除去し、遺体を取り出すために換気装置が開けられた。以上が、コッホ被告についての説明です。

ポーランドの証言集:エドワード・スタイシュ

これと似たような証言は他にも複数あります。BBCの『アウシュヴィッツ ナチスとホロコースト』でも他の証言者による証言を見ることができます。


「これが「ガス室」か?」について

しかし、この「投入孔」を見ると、奇妙なことに気が付きます。この建物の屋根天井の内、これらの「投入孔」の周りだけが、コンクリートの質が違うのです(次頁写真)。つまり、これは、これらの穴が後から開けられたことを意味すると思うのですが、一体なぜ、後からこの穴が開けられたのでしょうか?その上、この「投入孔」は非常に粗雑なくり抜き方で開けられていることにも注目しなければなりません。これが何を意味するかと言うと、この穴には気密性がないということです。ところが、これは、処刑用ガス室の構造としては、決定的におかしいことなのです。即ち、青酸ガスによって処刑を行なうなら、その「ガス室」には極めて高度な気密性が要求されるはずですが、この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性がないことはあまりにも明らかです。

西岡本

として、西岡は自分で撮ってきた以下の写真を読者に見せます。

西岡は、前述したようにプレサックの『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』という2024年現在では中古で日本円換算で20万円以上もするとても高価な本を持っているのに、全然読んでないのです。

解放後のクレマトリウムI

建物はSSが放棄した状態で発見された[写真2]。解放後すぐにクレマトリウムの改築が始まったので、1945年初頭の状態を示す内部の写真は撮影されていないようで、残念である。この作業の間、ガス室の屋根の上でダンスが催された[写真4]が、これは間違いなく戦争終結の幸福感に起因する出来事であっただろう。

煙突[写真8、9、他]は二番目のモデルの形に作り直された。屋根には、チクロンBを注入するためと思われる4つの開口部が作られ[写真15、18]、屋根用フェルトで覆われ、元の開口部の痕跡が隠された。

『アウシュヴィッツ ガス室の技術と操作』p.133

以下でも述べられている通り、火葬場1は戦時中に一旦防空壕に改修されています。防空壕になっていたこと自体は修正主義者でも知っている人は知っている話です。

防空壕にしたのだから、ガス室の天井の穴はその時に一旦塞いだのです。だから、解放後にソ連が撮影した天井の写真には穴がないのです。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/pressac/technique-and-operation/pressac0149.shtml

この内部を防空壕にされていた火葬場をポーランドは戦後にガス室があった時のように再現工事を行い、その時に天井の穴も開けたのです。上の写真をよく見ると、うっすらと塞いだような跡が何箇所か見えるでしょう。工事に関わったポーランド人のズロブニッキ(ズウォブニツキ)は「火葬場の屋根にあるチクロンBの導入孔も、1946/47年に再建されたことをよく覚えています。導入孔の跡がはっきり残っていたので、復元するのは簡単でした……こうして、同じ場所に再び小さな煙突の開口部を作ったのです」と証言しているそうです。

ここでは余談になりますが、その復元した穴が本当にチクロンを導入するための穴だったかどうかはわかりません。ズロブニッキは、穴が空いていたのであろう跡を目安にしてそこを開けたと言っているだけで、その穴は別の目的で開けられていたのかもしれないからです。例えばもしかすると、ガス室として使用される前の死体安置室時の換気用の穴だった、のかもしれません。あるいは、開けたはいいが間違って開けた穴なのですぐに塞いだかもしれない。何にせよ、どれかが本当のチクロン穴だとは思いますが、どれがそうなのかわからないのです。図面もありませんし、証言者は異なった数を証言していたりもするからです。

で、余談はそこまでとして、西岡は自分が撮影した穴は戦後に再開、復元したものだと分かってなかったのです。プレサックの本に書いてあるのに。ですから、西岡が「この「投入孔」を見れば、この「ガス室」(?)にそんな気密性がないことはあまりにも明らか」と言っているのは無意味なのです。それは戦時中の穴それ自体じゃないんだから。私自身は、ちょっとくらい外へ漏れたところで、処刑作業上、特に問題はなかったと思っていますし、親衛隊員はガスマスクをつけていた、と証言者も言ってます。ともかく、西岡はとてつもなく思慮が足りません。


この「ガス室」をどう換気するか

また、この第一死体焼却棟(「クレマー」)の「ガス室」には換気装置の痕跡が見られません

西岡本

と、西岡は述べていますが、バスティアン本の後書きを書いている石田勇治氏がこう述べています。

例えば、「換気扇がない」とされたガス室は、もともと焼却棟内の死体置き場であったが、そのころに使われていた換気装置が、ガス室に改造された後もそのまま使用され ていたことを、一九四二年夏の煙突改修工事の図面が証明している。そもそも換気装置が死体置き場にあったため、そこがガス室に改造されたのである(プレサック、ドイツ語版四二ページ)。

石田勇治、「日本版<アウシュヴィッツの嘘>―ナチ「ガス室」はなかった?」、ティル・バスティアン、『アウシュヴィッツと<アウシュヴィッツの嘘>』、p.147

ただ、私自身はそのプレサック本(1994年)を知らないので、図面も知りません。ですが、ずっと前に翻訳した親衛隊員のペリー・ブロードによる回想録には以下のような記述があります。

しばらくして、換気装置がガスを抜いた後、火葬場で働いていた囚人たちが死体安置所の扉を開けた。

https://note.com/ms2400/n/nb0bcc03bc87e

この証言を確かめる術は持っていませんが、西岡は復元工事があったことすら認識していないのですから、西岡の「痕跡が見られません」が当てにならないことは確かでしょう。防空壕にした時にその換気装置を撤去したことは十分あり得ます。

今お話ししている換気の問題について言うと、アメリカの処刑用ガス室では、処刑後、その青酸ガスを長い煙突(stack)を通して徐々に排気するという方法が取られているのですが、これは、青酸ガスが空気より軽いことに関係のある方法だと思われます。

西岡本

しかし、同じチクロンBを使うアウシュヴィッツにある害虫駆除室には、そんな煙突は一つもありません。もしそのような安全策があったのであれば、前述したようなヘスによる警告書はあり得なかったでしょう。もちろん、安全に配慮するのであれば、煙突があった方がいいのはいうまでもありません。米国の死刑用ガス室ではそうしていただけのことです。極端な安全策を取ることはどんな場合でもよくある話です。しかし、アウシュヴィッツ収容所は部外者が入ることはほとんどなく(一部取引業者くらいなものでしょう)、特にガス処刑室は極秘なのですから、極端な安全策を取る必要などありません。ガスマスクもありましたし、何か症状が出たなら病院もありました。実際に、害虫駆除作業中にチクロンBのガスを吸ってしまい、入院していた人の証言もあります。

一度だけ、装着していたマスクのガス密閉が悪く、少しガスがかかったことがあります。その時は何も感じませんでしたが、2時間後にひどい頭痛と髄膜の痛み、肺の焼けつくような痛みがありました。最初はKB(Krankenbau /病院棟)には行かず、ブロックから白樺の小道(ブロック3と捕虜収容所の防護壁の間)に出て、膝の屈伸をしながら深呼吸をしました。頭痛はかなり早く治まりましたが、咳をすると少し血が出ました。ワシレフスキー医師は、喉の炎症と脱水を診断しました。入院後、2ヶ月で完治しました...

プレサック、『技術』、p.25

そして西岡は今でもX(旧Twitter)上で繰り返し繰り返し、このことを述べ続けています。

他にも、この建物には色々な不合理が指摘されていますが、例えば、この煙突はどうでしょうか。「ガス室」の隣の死体焼却室の煙突とされているものですが、この通り、建物とつながってすらいないのです(前真写真=西岡撮影)。

西岡本

この件もすでに示したブログの方で説明しているので割愛します。

このブログ記事では書いていませんが、西岡はアウシュヴィッツを訪問した時に、案内係についてもらって見学していたそうですが、その案内係に、その煙突の件すら何も聞かなかったそうなのです(本人談)。ところが、マルコポーロ事件のあったすぐ後に、現地を訪れたフリージャーナリストの福田みずほ氏は、それらのことも色々と案内係に聞いていたりするのです(福田みずほ、「「ホロコーストの嘘」の嘘」、『創』、95.4号、pp.122ff)。「建物と繋がっていない煙突」については、福田氏はプレサックの本まで調べています。福田氏はホロコーストの専門家でもなんでもありません。西岡は一応、日本を代表する修正主義者だと思うのですがこの差は一体何なのでしょうか。否定派と疑われたら困るから案内係に聞けなかった、とかなんとか言い訳していましたが、それなら聞き方を工夫すれば良いだけだろ、と思います。


「「レクスプレス」に載った驚くべき記事」について

それは、エリック・コナン(EricConan)という「定説」側の論者ですが、彼は、もちろん第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)にある「ガス室」については何ら疑問を投じてはいません(27)。しかし、ことこの第一アウシュヴィッツの「ガス室」に限っては、「そこにある全ては偽物である(Toutyestfaux)」と、アウシュヴィッツ解放五〇周年を特集した、フランスの週刊誌レクスプレス(l'Express)誌上の記事で、ついに認めているのです(27)。

西岡本

この記事は、私とのやり取り中にも西岡が言い出したので、ネット検索すると記事全文が見つかったので、翻訳しています。普通に読めば、西岡が記事の趣旨を如何に歪曲しているかがわかります。要は、戦後に復元した時に色々間違っているから偽物みたいなもんだ、とコナンは言っているだけです。何が「ついに認めている」なものか。


「なぜ説明が二転三転するのか」について

ところが、この第一死体焼却棟に関するアウシュヴィッツ博物館の説明には、根本的な問題があるのです。それは、この建物が当時そのままのものなのかという点について、博物館側が矛盾する説明をしてきたという事実なのです。つまり、先に挙げた様々な不合理全てに目をつぶったとしても、この建物が当時そのままの状態になければ、この建物に「物証」としての価値などありません。当然、と言うべきでしょう。アウシュヴィッツ博物館は永年、この第一死体焼却棟はドイツ人がアウシュヴィッツにいた頃のままの状態にある、と説明し続けてきました(28)。
ところが、そのアウシュヴィッツ博物館は、この建物が持つ様々な不合理について追及されると、「この建物(第一死体焼却棟)は復元されたものです」等と言って弁明することを繰り返してきたのです(29)。一体、この「ガス室」は、当時そのままのものなのか、それとも後から「復元」されたものなのか。この根本的な問いに対するポーランド当局自身の答えが、こんなものなのです。そして、一九九○年代には、博物館の責任者がはっきりと、この「ガス室」は「再建されたもの」だと言い、戦争中そのままのものではないことを認めるようになっています(同)。しかし、かつては、「当時のままの状態にある」と言っていたのですから、これは、話が変わったとしか言いようのない変化です。

最初からちゃんと説明してこなかった、という意味ではアウシュヴィッツ博物館に落ち度はあると思います。博物館の歴史部門の責任者だったフランチシェク・ピーパーの説明では、米国のホロコースト否定者だったデヴィッド・コールの動画の騒動の時に、こう語ったそうです。

コールは、ナチスがガス室のある問題の火葬場を防空壕に適応させたという、博物館のガイドでさえ知らなかったとされる事実を、私が初めて認めたと主張しています。それは、真実ではありません。アウシュヴィッツ・ガイドの基本的な読み物となっている書籍のページのコピーを同封しておきます。ヤン・セーン著『オシフィエンチム―ブルゼジンカ(アウシュヴィッツ―ビルケナウ)強制収容所  ワルシャワ1957』では、152頁に、1944年5月に、主収容所の古い火葬場Iが防空壕として使用されたことが記されています。

https://www.jewishvirtuallibrary.org/krema-i

この本に「1944年5月に、主収容所の古い火葬場Iが防空壕として使用された」と書いてあって、案内係はそれを読んでるんだから、隠してたわけじゃねーべ! って言いたいのでしょうけれど、これしか資料が残ってないんだから、かなり杜撰なんじゃないの?って印象は拭えません。火葬場1の戦後の修復に関する資料がどうやら全然残っていないようなのです。

もちろん、のちに修正主義者が第一火葬場・ガス室を捏造だと騒ぐだなんて想像もしていなかったとは思いますが、復元工事中の写真であるとか、図面であるとか、あるいは復元工事関連の資料であるとか、作業日誌であるとか、ちゃんと残しておけば騒ぎにならなかったのではないかと思います。2024年現在、日本でも近年、大事な裁判資料を処分しちゃったとか、色々ありましたよねぇ。

まぁでも、西岡の「話が変わっているではないか!」という言いがかりは、それは、アウシュヴィッツ博物館がちゃんと説明してこなかったからだし、多分訪問客を案内する現場の案内係も、1990年代頃までは、復元工事があっただなんて知らなかったんだと思います。デヴィッド・コールのビデオを見ると、案内係の主任は知っていたようですが、ちゃんと下々の案内係までは伝わってなかったのでしょう。フォーリソンが1980年前後ごろに訪問した時にも、同様の話があったはずなのにきちんと意思統一せず放置してきたのでしょうね。

つまり、以上のような説明で理解できるはずのに、西岡や否定派としては「話が変わっているではないか!」とどうしても食い下がりたいのです。それはガス室を捏造としておきたいからに他ならないからでしょう。それだけの話に過ぎないのです。実にくだらない……。

それどころか、戦争直後の写真を見ると、明らかに現状と違うことが分かるのです。例えば、前頁の写真をご覧下さい。これは、「定説」側のプレサックという論者の著作に載っている、一九四五年のこの建物の写真(上)ですが、私が九四年に撮った写真(下)と比較して下さい(30)。あの煙突は、戦争直後には立っていなかったではありませんか。

西岡本

これも、すでに上で示したブログの方で説明しているので割愛します。捏造だったらそんな写真残すわけねーだろw


「第二アウシュヴィッツ(ビルケナウ)の問題」について

ここでまず、重要なことを言います。ビルケナウには、このように、複数の「ガス室」が存在し、稼働していた、というのですが、それら「ガス室」の「実物」は、それぞれ程度は違いますが、皆、破壊された状態にあり、「そのままの状態」で存在しているものは一つもないのです。「ドイツが破壊したからだ」と説明されていますが、これらの建造物を破壊したのがドイツだという証拠は何もありません(8)。「ヒムラーが隠滅を命令した」という意味のことを書いている本もありますが、これはただ、戦後そういう「証言」があるというだけのことで、そんな命令文書が残っているわけではないのです(31)

西岡本

そう仰いますが、それ以上にソ連やポーランドが破壊したという証拠は、証言を含めて全く一切何もありません。どうしてソ連がドイツの施設を破壊する必要があるのでしょうか? あたかもドイツが殺人ガス室を隠匿するために四つの火葬場を爆破したかのように偽装するため? そんなことする必要がありますか? それよりも、西岡によると戦後長期間アウシュヴィッツ収容所は立ち入り禁止にされていたそうですから、その間にガス室作っちゃえば=捏造しちゃえばいいじゃないですか。第一ガス室は捏造なのでしょう? それなのに絶滅の現場であるビルケナウのガス室は捏造せずに火葬場ごと破壊した? 意味がわかりません。

どうして修正主義者は、筋の通らない主張ばかりするのでしょう? 

しかし、証言はいっぱいあります。私が翻訳していた時に驚いてばかりいたルイジ・フェリの証言なんかはどうでしょう?

1945年1月19日の朝、SS隊員たちは、作業可能な全員に死体の除去を命じ、EffektenkammerKanadaと呼ばれていた衣類倉庫の箪笥に火をつけました。
<中略>
その間に、他の2つの火葬場はすでに爆破されていました。カナダは1月23日の夜に晩中燃え続け、その後さらに5日間夜を徹して燃え続けました。
<中略>
最後の火葬場Vは1945年1月25日午前1時に爆破されました。
<後略>

ポーランドの証言:ルイジ・フェリ

他にも探せばいくらでも見つかると思います。要は普通に、証拠隠滅目的で、親衛隊員らは上からの命令通りに、大量殺戮をやっていた火葬場建物を解体作業後にダイナマイトで破壊した、それだけの話です。そして証言は実態に矛盾しない。これのどこが不思議な点があるのでしょうか?

これらの建物については順にお話ししますが、ここで一つ重要なことを指摘しておきます。それは、その内部に「ガス室」があったかどうかは別として、これらの建物は当時明らかに存在していたということです(33)。ですから、これらの死体焼却棟を見た人々は、当時たくさんいたのです。ですから、仮に「私はガス室を見ました」という元被収容者がいたとしても、その証言の意味は、これらの建物を外から見たという意味かも知れないのです。
ビルケナウには、第一アウシュヴィッツよりも多くの人々がいたこともあり、戦争中そこにいた人々の証言はマスメディアなどに非常にしばしば登場します。しかし、後で述べますが、そうした証言の主たちは本当は何を見たのか、きちんと検証されているとは到底言えないのが、「アウシュヴィッツ」を語ってきた戦後のマスメディアの現実です。こうした「証言」の問題については、後述したいと思います。

西岡本

ふーん、後述ばっかりですね。しかし「建物を外から見たという意味かも知れない」だとしても、中で働いていたゾンダーコマンドはどうなるのでしょう? まぁ後述するということですので、これは置いておきましょう。しかし、外からの観察と中で働いていた人の証言が一致する、ということが何を意味するのかは誰でもわかる話だとは思いますけどね。


「第二アウシュヴィッツの第二死体焼却棟」について

ご覧のように、彼らは、この建物の地下室の一つが「ガス室」だったと主張し、そこで青酸ガスによる処刑が行なわれたと主張します(22)。そして、処刑された死体は、隣接する部屋からエレベータで地上の火葬場に運ばれ、焼却された、と「説明」するのです(8)。これは、アウシュヴィッツ博物館のみならず、この「ガス室」に関する「定説」側の一致した「説明」と言えます。
この説明の真偽についてはこの後で論じますが、その前に、重要なことを言っておきたいと思います。それは、この「ガス室」は、或る意味で、「定説」の命運を決定するほどに重要な「ガス室」だということです。何故なら、「定説」の言うところによれば、ビルケナウ収容所は、第一アウシュヴィッツと違い、作られた当時から「ユダヤ人絶滅」を目的に建設された収容所だったとされ、かつ、そのビルケナウに最初に作られた「ガス室」が、この第二死体焼却棟の「ガス室」だったとされているからです(35)。

西岡本

ビルケナウ収容所は最初からユダヤ人絶滅用だったわけではありません。いったい誰がそんなことを言ったのか、何を見てそんなことを西岡が言っているのか知りませんが、これも、西岡が持っている筈のプレサックの本に書いてあります。

1941年3月1日にアウシュヴィッツKL(強制収容所)を訪問したヒムラーの主な命令は、捕虜収容所(基幹収容所)を拡張して3万人の囚人を受け入れること、ビルケナウに10万人のソ連軍捕虜を収容する収容所を建設することであった。

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/10/06/021055#p183

バルバロッサ作戦で火蓋を切ることになる独ソ戦開始は1941年6月22日であり、その戦いで大量の赤軍捕虜が出ることを予想して、アウシュヴィッツ収容所のあった地域であるオシフィエンチムにビルケナウ収容所を建設することになったのです。結果的にはユダヤ人がほとんどの収容者とはなりましたが、最初の目的は違ったのです。ともかくここでも、西岡は全然プレサック本を読んでないことがわかります。プレサックも元は修正主義者だったとは言え、一応定説側の一人なのですが。

「定説」側の説明によれば、第一アウシュヴィッツの方は、最初は普通の強制収容所だったものが、途中から「絶減収容所」に切り替えられた収容所だった、とされています(22)。

西岡本

これも違います。第一収容所のガス室は、ユダヤ人絶滅にもしかしたら少しは使われたかもしれませんが、アウシュヴィッツ第一収容所はあくまでも強制収容所(および戦時捕虜収容所)でした。少なくとも私自身は、第一収容所が途中から絶滅収容所に変わったなどという説は聞いたこともありません。よく言われるのは、第一収容所の第一ガス室で殺されたのは1万人にも満たないであろう、ということです。1942年末でガス室での処刑は終了しているそうです。これもプレサック本に書いてあります。

このガス室は時々しか使われず、継続的に使われたわけではなかったので、どれだけの死者が出たかは不明である。その数は、おそらく1万人を超えないだろう

クレマトリウムIは、1940年11月から1943年7月まで火葬施設として機能した。そのガス室は、1941年末から1942年まで、散発的に使用されたが、正確な日付はわかっていない。1943年に廃炉となり、3つの炉が解体され、煙突も取り壊された。

https://holocaust.hatenadiary.com/entry/2020/09/01/225516#p132

実際、西岡はプレサック本を持ってるだけで「全く」読んでない感じもしますね。マスコミや定説側は検証してないだのなんだのと偉そうなことを抜かすくせに、自分自身はなんなのでしょうね?

先ず、地下の「ガス室」を処刑後どうやって換気したのか、という問題があります。地下室ですから、気密性を確保するには良いかも知れませんが、人間が一杯に押し込められたその地下室を換気し、死体を搬出するには、大変な時間が必要とされたのではないか、という問題があるのです。青酸ガスは猛毒ですが、猛毒であるからこそ、処刑後、作業員が「ガス室」内部に入って死体の搬出作業をするためには、徹底的な換気が行われなければなりません。しかし、問題の地下室は、隣室との間に出入り口が一つあるだけなので、三方は地中に囲まれている細長い地下室なのです。
換気扇を使おうと使うまいと、猛毒の青酸ガスを隣室に排気したら、今度はその隣室の徹底的な換気が必要になります。しかし、これは、あまりに非効率かつ不合理なことです。では、地上に排気したというのでしょうか?しかし、そのような装置が存在していた痕跡はなく、戦争中の写真からも、そんなものはなかったらしことが窺えるのです。

西岡がプレサック本を本当に全く読んでないことはここからもわかります。何とプレサック本では、その第二・第三火葬場の換気システムについての解説がまるまる一章を使って行われています。呆れてものも言えない、とはこのことです。

第二・第三火葬場の換気システムについては、西岡が教祖並みに扱っているだろうと考えられるロベール・フォーリソンだって知ってます。フォーリソンは、その換気システムの吸排気の上下位置がおかしいと言ったりしているからです。あと、フォーリソンだったか誰だったか忘れましたが、二千人とか三千人とか、そんなに詰め込んでガス処刑したら、死体で換気扇を塞いでしまうから換気が不可能となって不合理だ!などもあったと思います。いずれにしても、第二・第三火葬場の換気システムの存在自体を否定する否定派は、不勉強極まりないです。

もう一つの疑問は、処刑後、どうやって死体を搬出したのか、という問題です。今述べたように、この地下室には出入り口は一つしかありません。ところが、そんな地下室の中に、人間を多い時は3000人も(!)入れて処刑したと、「定説」側は主張しています。そんな多数の人間をこの地下室に押し込め、処刑し、そして、死体で満杯の地下室を換気したという話自体が驚異です。しかし、さらにその後、そうした多数の死体をたった一つしかない狭い出入り口から搬出して、隣接するエレベータで地上の火葬場に運んだ、というのです。こんな作業がどれほどの人手と時間を要するか、想像して頂きたいと思います。

西岡本

そのような計算は、例えばリップシュタットvsアーヴィング裁判でもありました。

しかし、西岡は文句言うだけで計算も示していません。そこでここで、私が本当に簡易な推定で、簡単な計算を示したいと思います。

まず、エレベーターの輸送能力を、一回あたり死体を十体まで乗せて運べるとします。犠牲者は子供や女性が多いと思うのですけど、多めに体重を考えて一人50kgとしても、500kg程度ですから十分可能でしょう。したがって3000体ならば、300回往復させればいいことになります。火葬場の火葬能力を限界を超えるとは思いますが、否定派側に有利なように1日で3000体を処理できるとします。つまり、連続稼働をしたと仮定するならば、1日でエレベータを300回往復させればいいのですから、24時間÷300回=約5分/回で1往復させればいいことになります。たかだかエレベーターは、地上階と半地下階を往復させるだけですから、上→下、下→上はそれぞれ1分、積み込みと荷下ろしにそれぞれ1分としても、エレベーター1往復あたり合計4分しかかかりません。これを不可能だと言いますか?

一応言っておきますが、第2または第3火葬場一箇所で、日あたり3000体の火葬処理は無理だと思いますから(親衛隊文書では1440体/日)、もっと時間に余裕があることになります。上の単位時間が短すぎる? いいえ、ユダヤ人囚人なんて収容所内にいっぱいいましたから、作業員に事欠くことはありませんでした。スループットを上げたいのなら人員を増やせばいいだけです。

また、一部、欧米の修正主義者による否定論動画では、エレベーターリフトの最大荷重が300kgしかなかったとするものがありますが、プレサック本では「最低荷重300kg」をリフトを作成した金属加工場に要求していたのであって、実際にはそれよりも荷重許容値は大きかったでしょう。そして、「その後、容量1500kgのDemag(註:ドイツのリフトメーカー)の荷物リフトに交換された。」(p.488)ともあります。従って、日あたり処理量を半分の1500体、一回あたりのリフト積み込み人数を20人とすれば、一往復あたりの時間は上の計算の4倍になり、概ね20分もあることになります。さすがに20分を短すぎると言う人はいないでしょう。

西岡はなぜこんな簡単な計算すらしないのでしょうか? やってみたら全然余裕だったので自説に不都合となるため書かなかったのでしょうか?

そもそも、この「ガス室」とされる地下室の面積は210平方メートルなのです。その中に、3000人もの人間が入ったという話自体を、皆さんはお信じになれるでしょうか?

西岡本

これも何度も何度も以前から話してきた話題です。先ず、3000人とは誰が言ったのでしょうか? もしゾンダーコマンドだとするのであれば、そのゾンダーコマンドはいちいち数えたのでしょうか? ヘスは自伝で最大3000人と確かに書いていますが、一方で一度も3000人には達しなかったとも書いています。こちらの、ザルマン・レヴェンタルの残した文書には、確かに3000人と記載はありますが、どの数字もキリの良い数字が書かれており、明らかに概数であることがわかります。目安でその程度と推定していただけで、正確ではなかったのではないでしょうか?

ですが、仮に3000人だったとすれば、14.3人/㎡だったことになります。これは不可能でしょうか? 実は、実際のデーターから可能だったことがわかっています。日本で起きた明石花火大会歩道橋事故の報告書を見るとわかります。この報告書では、実験によるものと考えられる以下の表が掲載されています。

次のページには、「なお、この6,400人が滞留している時には、歩道橋全体として平均9~ 10人/㎡、歩道橋の南半分の極度に密集したと考えられる部分では、最大 13~15人/㎡という密集状況にあったことを確認しておきたい。」と書いてあります。ガス室で処理された犠牲者には子供が多かったと考えられるので、人数的にはもっと群衆密度の可能上限値は高くなります。上の表は、衣類をつけた成人男性のものです。

アウシュヴィッツ・アルバムより

以上、たとえ3000人でも可能だったことが証明されました。なぜ西岡を含む否定派は、定説を信じる側に「しっかりとした検証をしていない」のように批判するのに、自分たちはちゃんと検証しないのでしょうか?

(註:プレサックが自身の調査研究で、ビルケナウの火葬場が最初はガス室などなく、途中でガス室を作ることに変更されたと主張したことに対し)
これが何を意味するかというと、先ず、ビルケナウ収容所が建設された当初、この収容所に処刑用ガス室を作る計画はなかったということです。仮に、彼が主張するように後からこれらの地下室が「ガス室」に転用されたとしても、収容所の建設当初には処刑用ガス室を作る計画がなかったということなのです。ですから、これは、ビルケナウ収容所が「ユダヤ人絶滅」の目的で作られたという命題そのものに疑問を投じる結論を意味するのです。

西岡本

すでに述べた通りですが、もし西岡の時代に最初からビルケナウ収容所がユダヤ人絶滅目的で作られたと主張する人がいたのであれば、それは単なる誤りです。少なくともアウシュヴィッツの最初の司令官だったヘスの自伝にはそんな風には書いてません。正確な日付はわからないものの1941年のある日に、アイヒマンがアウシュヴィッツを訪れ、ユダヤ人絶滅をアウシュヴィッツのどこで実施するかについて、周辺地域をヘスと共に車で回って確認していたことを示す記述があります。これはのちに、アイヒマンも語っています。そして、ビルケナウの敷地外のすぐそばに候補地を見つけるのです。それが最初のユダヤ人絶滅の現場であった農家であり、その農家を改造してブンカー(ガス室建屋)とするのです。これも、西岡の時代にもすでにあった(1995年頃当時の出版社はサイマル出版会)、日本語版のヘスの自伝をちょっと確認するだけですぐわかります。西岡は、ヘスの自伝という基本中の基本の文献ですら読んでないのです。西岡は欧米の修正主義者による「ヘスは拷問で嘘の自白を強要された」説を疑うことなく鵜呑みにして信じ切ってしまったので、自伝に価値を見出さなかったのは理解しますが、それでも「読まない」のでは話にならないと思います。

実際、ブレサックが自著に掲載しているこの第二、第三死体焼却棟の多数の図面を見ると、問題の地下室には、Leichenkeller(死体安置室)という書き込み以外の名前は与えられていません。つまり、これらの地下室は、火に先立って病死者などの死体が安置された、安置室のようなものだったということです。当時のアウシュヴィッツビルケナウでは、チフスなどによって連日多くの人々が生命を落としてしまいましたが、そのチフスの拡大を予防する目的で、これらの地下室と火葬場は作られ、使用されていたということなのではないでしょうか。それが「ガス室」に転用されたというなら、その証拠を示すべきですが、結論から言うと、プレサックはそのような証拠を提示していないのです。

西岡本

こんな短い文章の中で、あっさり矛盾したことを言える西岡には呆れます西岡はプレサックに「証拠を提示していない」と自ら批判しているのに、自身は「(第二、第三死体焼却棟は)チフスの拡大を予防する目的で、これらの地下室と火葬場は作られ、使用されていた」証拠を一切提示していません。

しかし、プレサックは違います。多数の文書と図面から、ガス室が火葬場に併設されていたことを読み解いたのです。特に、1942年12月19日付の図面2003について、それまでの図面との違いを、

「「Rutsche / [死体]シュート」が削除されているので、焼却される予定の死体が自分の足で、つまり、まだ生きている状態で、二つの合併施設に入る計画であったと認めなければ、この図面は理解できないだろう。この図面から、次のような疑問がわく、SSはなぜ、生きた人間を死者のための場所である死体安置所に連れてきたかったのだろうか? 」

プレサック、『技術』、p.213

と読み解いたのは重要です。以下のように、最初は死体を地下に下ろす死体シュートがあったのに、1942年12月の図面では階段の位置を変更すると共にその死体シュートが図面から消えているのです。

これだけではなく、Lechenkeller 1へ入る扉が内開きから外開きに変わっているのも、死体が扉の開閉を妨げてしまうから、と考えられます(最終的には外開きの一枚扉となった)。他にもさまざまな観察から、明らかにただの死体安置室の予定だったものを、ガス室に利用目的を変更したことがわかるのです。

何度も何度も述べますが、西岡は2024年現在ではとても高価で入手困難なプレサック本を持っているのに、全然読んでないのです。読んでもいないのに「プレサックはそのような証拠を提示していない」と宣うのは大した度胸だと思います。私にはとてもできません(笑)


「フォーリソン教授が指摘すること」について

言われている「定説」側の説明によれば、「ガス室」だったとされる第二死体焼却棟の地下室には天井に小穴が四つあり、その小穴から例のチクロンBが投入されたという話になっています。ところが、この点について、見直し論者の一人であるフランスのフォーリソン(Faurisson)aurisson)教授は、教授は、驚くべきことを指摘しているのです。それは、現在ビルケナウに現存する第二死体焼却跡に足を運んでその実物を見ると、「ガス室」だったはずの地下室の天井、即ちその地上部分に、肝心の小穴が一つしかない(!)ということなのです。しかも、その一つしかない小穴も、フォーリソン教授によれば、非常に新しいもので、戦後開けられたものだとしか考えられない、というのです。

西岡本

この件は、欧米の修正主義者たちは、ビルケナウの第2(あるいは第3)火葬場のガス室とされている箇所は、実際にはガス室ではあり得なかったとする決定的な証拠として、しつこいくらい主張する話です。「No holes, No holocaust」なるキャッチフレーズも編み出しました。詳しい話は以下などで読めますので、ここでは割愛します。しかし修正主義者も、一つと言ったり二つと言ったりいい加減ですねぇ。


「第四、第五死体焼却棟について」について

ただ一つ、図面ではありませんが、建物が作られていた当時の建設日誌の中に、Gaskammer(ガス室)という単語の出て来るものがあります。これは、「定説」開論者であるプレサックが、一九八九年の自著の中で、他の複数の文書(後述)とともに提示しているものですが、この日誌に出てくるGaskammerというドイツ語は、確かに処刑用ガス室も意味し得ますが、衣服などを燻蒸、駆虫するための殺虫用ガス室をも意味する単語なのです(日本語で「ガス」と言ったら、毒ガスとは限らないのと同じです)。むしろ、それが普通の使われ方なのですから、それが処刑用ガス室だったというのなら、そういう側の人々は証拠を提示するべきです。現に、ビルケナウには殺虫用のガス室が存在し、被収容者の衣服をシラミ退治の目的で消毒するために使われていました。そのことを考えると、これなども、そうした設備を示す言葉と解釈する方が全く自然だと思うのですが、いかがでしょうか。

西岡本

この話は西岡とやり合ってた時にも話していましたが、私もこれには「殺人ガス室なのか害虫駆除室なのかどっちの話なのかわからない」という意味で同意します。しかし、その可能性が否定されるわけでもありません。その日誌は、こちらの写真27のことだと思います。アウシュヴィッツの図面では「Gaskammer」と書かれた図面が発見されたりすると、「ガス室の証拠だ!」と騒ぐ人がいますが、それは害虫駆除室を意味するものしかありません。ただし、図面ではない文書にそう書かれたものはわかりません。他のさまざまな情報と照合する必要があります。


「「ガス」の付く単語が「ガス室」に関係あるとは限らない」について

例えば、プレサックは、Gasprüfer(ガス探知器)という単語の出てくる業者宛ての手紙がアウシュヴィッツに残されていることを挙げ、それをアウシュヴィッツービルケナウに処刑用「ガス室」があった証拠でもあるかのように引用しています。しかし、当時、販売されていた青酸ガス探知用のキットには別のドイツ語の単語が使われていたことが、見直し論者であるマットーニョによって指摘されています(8)。それどころか、このGasprüferという単語は、燃焼工学の分野で、焼却炉の排気ガスに関して使われていた技術用語であったことまで指摘されています(同)。つまり、このGasprüferという単語が出て来る業者宛ての手紙は、「毒ガス」の探知に使われたものではなく、焼却炉で使われた器具のことらしいということです。

西岡本

この件は、マットーニョは自分でソ連の裁判でのプリュファーの証言まで調べているのに、自分の推理を優先して誤った結論を出した例です。以下をお読みください。

プレサックの考えも誤っていると考えていますが、「ガス検知器」文書が証拠の一つであることは否定されません。


「ブンカーと呼ばれる建物」について

二つあったとされる「ブンカー」の内、その一つについては、家の礎石のようなものが野原の中にありますが、それがただの農家などの礎石でなく、「ガス室」を備えた建物だったという証拠は皆無です。そして、もう一つの「プンカー」は、礎石すらなく、文書も図面もなく、ただ「あった」という戦後の証言があるだけなのですが、一体、その存在はどうやって証明されるというのでしょうか? そもそも、農家を「ガス室」に改造した、という話自体がおかしいのです。「ガス室」というものは高い気密性を備えたハイテクなのであって、当時のポーランドの農家を改造してそんな目的に転用できたという話自体、到底信じがたいものです。そんなことが本当に行なわれたのでしょうか?

西岡本

ブンカーは、ビルケナウの敷地外にあった農家を改造して作られた、最初のユダヤ人絶滅用のガス室ですが、実際にあったことを示す当時の親衛隊による文書資料はないわけではありません。その文書資料を翻訳した記憶はあるのですが、自分で翻訳したのにどこにあるのだか思い出せませんでした、すみません。

図面については、まだ戦時中のアウシュヴィッツが解放された後のソ連かポーランドによる現地調査の時に、ゾンダーコマンドだったスラマ・ドラゴンの証言を元にゾンダーコマンドではないが囚人だったオイゲニウス・ノザルが図面を記述しています。

ブンカー2(白い小屋)の図面。
ブンカー2の周辺にあった埋葬ピット(右上)と脱衣バラック(左下)の位置図

「ガス室」というものは高い気密性を備えたハイテク」については、フォーリソンを教祖とするいまだにあのクズ報告書でしかないロイヒター報告を信じる低レベルのホロコースト否定者がずっと信じ続けている主張ですが、じゃぁ簡素な密閉対策しかしてなかったアウシュヴィッツの害虫駆除室についてはどう思うの? と聞いても答えが返ってくることはありません。害虫駆除室も一応、殺「人」ではないけれど、殺「虫」ガス室です。しかも、シラミは人間より殺しにくいので、24時間くらいそのガス室で燻蒸するのですから、危険度は殺人ガス室よりも高いと思うのですけれど。

「何故、「ガス室」跡からシアン化合物が検出されないのか」について

この項で書かれている内容については、ぐだぐだ述べている西岡の話を引用するのは字数の無駄ですので、そこで示されているグラフを紹介するだけにしておきます。

米国の死刑コンサルタント事業を営んでいたフレッド・A・ロイヒター・ジュニア氏は、1988年から実施されたツンデル裁判の第二審を控えて、ツンデル被告側からアウシュヴィッツ収容所等の殺人ガス室の科学的調査を行うよう依頼され、ポーランドにメンバーと共に飛び、五日間ほど滞在してアウシュヴィッツのガス室跡などから、博物館に許可なく不法に試料採取を行い、それをアメリカに持ち帰ってマサチューセッツ州にあるアルファ分析研究所に持ち込んでシアン化物の残留濃度の測定を依頼しました。アウシュヴィッツ収容所から採取した試料は全部で32。うち一つは、アウシュヴィッツ収容所ではっきりチクロンBを使っていたことがわかっていて修正主義者も否定しない衣類用の害虫駆除室からのものでした。

その害虫駆除室の壁から採取した資料から得られた、シアン化物の残留濃度の測定値が上のグラフの一番右側です。

これを非常に簡単に説明します。まず修正主義者たちはもちろん、

  • 害虫駆除室のデータがこんなにはっきりシアン化物が使われたことを示しているのに、殺人ガス室と言われている場所はほんのちょっとか全くなかったのだから、殺人ガス室は嘘だったに違いない!

でした。しかし、殺人ガス室の遺跡と、今も残っている害虫駆除室には決定的な違いがありました。それはプルシアンブルー(鉄青)の有無です。鉄青は、シアン化水素ガスにさらされて生成する場合の生成機序がはっきりしないものの、壁面等の建築素材中の鉄分とシアン化水素が化学反応を起こしてシアン化鉄錯体となったものです。

アウシュヴィッツにある害虫駆除室の隣の部屋の壁面に見られるプルシアンブルー

シアン化水素ガスによるシアン化物残留物には、このプルシアンブルーに注目して二つに分けられます。

  • プルシアンブルー(シアン化鉄錯体)

  • 非プルシアンブルー(建築素材に化学吸着したシアン化水素、その他のシアン成分(KCN、NaCNなど))

この二つのシアン化物には大きな違いがあります。プルシアンブルーは非常に安定性の高い化合物であり、アルカリには弱いものの、分解しにくい性質があります。このため、顔料や染料に用いられています。しかし、非プルシアンブルーは風化に非常に弱く、揮発性も高いし、水にも容易に溶けてしまい、長期的に残りにくい性質となっています。このことをわかりやすくするために模式的なグラフを作成していますので以下に示します。

あくまでも模式的なものなので、実験や理論に基づいたものではありませんが、ロイヒターの調査は、戦後43年も経ってからのものです。そもそも、シアン化物が戦後43年も経って、明確に検出されることの方がおかしいのです。しかしそれは、ロイヒターが害虫駆除室から採取した試料にはプルシアンブルーが多く含まれていていたから、とすれば説明できるのです。

ですから、殺人ガス室の遺跡からシアン化物が全く、あるいはごく微量しか検出されなかったのは風化のためであり、プルシアンブルーを含まなかったからなのです。

なぜ害虫駆除室でプルシアンブルーが生成されたのに、殺人ガス室では生成されなかったのか? については詳しくはわかっていません。しかし、こうは言えます。修正主義者たちはシアン化水素ガスが使われたのならば、プルシアンブルーは生成される「はずである」、と主張します。しかしそんな証明はありません。

そして害虫駆除室でのチクロンBと殺人ガス室でのその使い方が異なっていることを否定派は無視します。殺人ガス室ではシアン化水素ガスはたかだか30分程度しか残留しませんでした。殺したらガス室内は換気され、さっさと遺体は火葬に回されます。しかし害虫駆除室は、シラミが人間よりも遥かに死ににくいため、24時間燻蒸するのが普通だったようです。また、殺人ガス室は遺体を撤去し室内は徹底的に毎回洗浄されたそうですが、害虫駆除室が洗浄されたという話はありません。これらの条件の違いから、殺人ガス室ではプルシアンブルーは生成しなかったのではないかと考えられます

これについて、修正主義者でロイヒターよりは遥かに優れた化学者のゲルマー・ルドルフは、とある場所の教会の害虫駆除作業でプルシアンブルーが生成された事例を挙げて、たった一回のシアン化水素ガスによる燻蒸だけでプルシアンブルーが出来ることもあるのだから、アウシュヴィッツの殺人ガス室に全くプルシアンブルーが見られないのはおかしい、のような主張をしましたが、その教会の事例は特殊事例であって、もしチクロンBによる害虫駆除作業でプルシアンブルーが頻繁に生成されていたのなら、苦情殺到でチクロンが当時広範に使われたはずがないため、説明になっていません。

短く説明しようと思った割には長くなってしまいましたが、より細かな話は以下のブログページかそこに含まれるリンク先の記事をご参照ください。

確かにこの話は、歴史学者でもなかなか理解している人は少ない印象です。無理やりやっつけ的に否定しているリップシュタットのような歴史学者もいるくらいです。


「リューシュター報告の分析値の正しさはポーランド当局も認めている」について

即ち、この報告に反論しようとしたポーランドの法医学者たちが、同じようにアウシュヴィッツ=ビルケナウの色々な場所からサンプルを採って化学分析をしたのですが、彼らの報告は、データの解釈において「リューシュター・レポート」に反してはいるものの、ロス博士が報告した「リューシュター・レポート」の分析値自体は、結局、肯定する内容になっているのです(同)。

西岡本

いいえ、そのクラクフ報告はロイヒター・レポートに明確に反論する目的で作成されたものであり、分析値それ自体に不正はないと認めても、ロイヒターのやった方法を否定しています。西岡はクラクフ報告を真面目に読んでいないのでしょう。

このクラクフ報告は、まずロイヒターの分析方法とは明確に異なって、「構成されるシアン化鉄錯体(これが議論になっている青である)の分解を誘発しない方法」、つまりプルシアンブルーのシアンを分析結果に含めない方法で測定を行っています。それにより、害虫駆除室のシアン化物残留濃度は、ロイヒターのそれより遥かに小さい値となっています。

ロイヒターでは、害虫駆除室とガス室遺跡の分析値(最大値)の差は、比率にしてざっと150倍くらいですが、クラクフではざっと1.5倍しかありません。害虫駆除室はダイナマイト破壊されて野晒しとなっているガス室遺跡とは異なって、現存されたままであり風雨にさらされていないのに、たったそれだけしか差がないのです。このことが何を意味するかよく考えてほしいところです。

クラクフ報告のもう一つの注目点は、「表I. (1942年の腸チフス流行に関連して)一度だけチクロンBで燻蒸されたと思われる住居から採取したコントロールサンプルのシアン化物イオンの濃度」であり、8サンプルですべて検出限界以下となっている点です。つまり、たった一度しかガス燻蒸されていない程度では、シアン化物が検出されるほどは残らないことを証明しているのです。また、少なくともアウシュヴィッツにある住居棟では、バックグラウンドレベルですらもシアン化物は検出されないことを示しています。

西岡はちゃんとクラクフ報告を読みもせず、いい加減なことを言っていることがまたしても明らかになりました。


「マイダネックの「ガス室」は何故「シャワー室」に変わったのか?」について

マイダネクのガス室については、私自身はまだよくわからないので、特に述べることはありません。マイダネク博物館ですら、わからない点が多いとしているほどです。

とにかく、日本語文献も少なく、海外のネットからも限られた情報しか得られないため、アウシュヴィッツのようにはいきません。従って、以降三つの項目、「何故、火葬場から一番遠い場所に「ガス室」を作ったのか?」「何故、「ガス室」にガラス窓があるのか?」「その他の「ガス室」の問題」は飛ばします。


「ガス室は極めて高価な処刑法である」について

そうしたさらなる理由はこの後の私の話を聞いて頂ければと思いますが、ここで一つだけ、その理由を挙げておこうと思います。それは、ガス室による処刑が、極めて高価な処刑法だということです(55)。即ち、アメリカでは、色々な歴史的経緯から、とにもかくにもガス室が他の処刑法とともに採用されてきたわけですが、そのアメリカでも、ガス室による処刑は、作業が煩雑な上、作業員にとって危険であり、そして、極めて高価なため、すたれつつあるというのが、現状なのです。
<中略>
そんな処刑法を「民族絶滅」の手段として選んだという話は、根本的に不合理だと私は思うのです。皆さんは、そうお思いにはならないでしょうか?

西岡本

途中にある注釈55にはこう書いてあります。

注55 バート・ロンメル著 遠藤比鶴訳『処刑の科学』88ページ

西岡本

よし、これを近所の図書館で調べてみよう!……と思って検索したら、所蔵してませんでした、残念。

否定派は、フォーリソンがこだわったらしいアメリカの死刑ガス室を比較対象とするのが非常に好きでして、「米国の処刑ガス室はこんなに高度な装置なのに!アウシュヴィッツは全然貧相じゃないか!」とお怒りなのですが、「高価」というのも非難ポイントであるそうです。

しかしですねぇ、以下の写真はシアン化水素ガスを使った害虫駆除風景の写真だそうですが、こんなのでもいいんです。

https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/auschwitz/leuchter-speech/leuchter-speech.shtmlより

リンク先の脚注には、「シアン化水素燻蒸によるピートサイラの防除」とあり、ピートサイラとは「梨の木の害虫」だそうで、これはその害虫駆除の作業風景の写真と推測されます。ダッククロスと呼ばれる厚手の布地シートで梨の木を覆っているそうです。これが高度に見えますか? 当然ですが、この中に人がガスマスクもなしに入れられたら、中のシアン化水素ガスで絶対死にます。

米国の処刑ガス室が過剰なまでに安全対策を施しているのは、例えば、米国の死刑は10人くらいの市民の監視のもとに行われるからですし、万が一のこともあってはならないとの考えからでしょう。アウシュヴィッツではそんな配慮はしなかった、だけのことです。実際、現存している害虫駆除室がそうなのですから。

チクロンBがいくらするかなんて知りませんけれど、害虫駆除をやってたわけですし、否定派によれば「あれは害虫駆除目的のものだ!」とするチクロンBはアウシュビッツには常時ストックされていたので、それを一部流用しただけのことです。

司法処置として厳正に行われなければならない米国の死刑用ガス室と、厳正に行う必要などなかったアウシュヴィッツのガス室を比べるのはナンセンスなのです。ただし、全く安全に配慮しなかったわけではなく、ガスマスクもありましたし、前述したようにガス検知器の導入検討までしていたのです。ところがそうした話をすると途端に否定しようとするのが否定派なのです。


「「絶滅収容所」がソ連支配下のポーランドにあったことの意味」について

それは、既にお話ししているように、今日「定説」が「絶減収容所」と呼ぶ収容所が、何故か、ボーランド領内にのみ存在したとされていることです。これは、単なる「偶然」なのでしょうか?

西岡本

要するに西岡らは、ポーランドにあったとされるのだから、絶滅収容所はソ連の捏造に違いない!と主張しているのです。しかも、西岡は卑怯にも「疑問を呈しているだけだ」と最初に断っており、自らはその捏造の証明をしないという態度をとっています。呆れませんか? 

確かに言論の自由はあり、どんなトンデモ説でも表明するのは自由です。しかし自由には責任が伴う筈です。だから、例えば2024年1月現在ですけど、SNSでの誹謗中傷に対し速やかな対応を可能とする法制化が進められているようです。言論の自由とはなんでも言いたい放題言えるというものでは決してないのではないか、と思います。

西岡らは自分たちがいかにいい加減なことを言っているかについて、責任を感じないのでしょうか? 私に出来るのはこうして批判するだけですけれど、本当に憤りを感じているからこうして批判しているのです。

さて、絶滅収容所がポーランドにあった理由については、一般的にはこう説明されます。ラインハルト作戦の絶滅収容所は、ほとんど人気(ひとけ)のないところに作られています。アウシュヴィッツはそれほどでもないとは言え、辺鄙な場所ではありました。そうした場所でユダヤ人の大量殺戮を行っても、目立たなかったから、です。

さらに、ラインハルト作戦の収容所は、主に対象としたのがポーランドのユダヤ人でした。特にトレブリンカ絶滅収容所は最大のゲットーであるワルシャワゲットーのユダヤ人の大部分を絶滅させた収容所です。従って、ワルシャワゲットーにほど近い場所にトレブリンカ絶滅収容所があるのは合理的であるとさえ言えます。また、最初の絶滅収容所であるヘウムノ収容所は、ヴァルテガウのユダヤ人絶滅を目的としていたので、当然ヴァルテガウのウッチゲットーに近い場所にあったのです。これもまた当たり前に過ぎない話でしかありません。

アウシュヴィッツの場合は、I.G.ファーベンの工場が作られたように、鉄道交通の要所となっており、欧州各地からユダヤ人を移送するのに便利でもあったのです。元々、ポーランドの総督府(ルブリン)にユダヤ人居住区を設定しようと言い出したのはヒトラーだとされています(ニスコ計画)。このことからも、絶滅収容所がポーランドにあったことは必然であったとも言えるのです。

なぜ西岡らはこのようにごくごく普通に、合理的に考えようとしないのでしょうか?

それまで、アウシュヴィッツの「犠牲者数」は、およそ四〇〇万人とされていたのを、ボーランド当局を代弁するピペル博士が百数十万人に「下方修正」した、というのがこの報道の主旨に他なりません。これは、「アウシュヴィッツの犠牲者数」について、ソ連支配下のポーランドで言われていた数字とこの数字との間に二五〇万人以上もの「誤差」があったことを意味します(50)。二五〇万人(1)です。二五〇万人といえば、第二次世界大戦における日本の戦死者に近い数字ですが、そんな「誤差」が一つの収容所の死亡者数について存在したということを、皆さんはおかしいとはお思いにならないでしょうか?

西岡本

戦後、ポーランドが民主化される以前までは、確かにポーランド政権はアウシュヴィッツの犠牲者数を400万人とすることに固執していたようです。私自身はそれが政治的な判断だったと言われていた程度にしか知りません。共産圏の頭目であったソ連が発表した数字だからという理由で配慮していたのかもしれませんし、ドイツへの戦後の補償要求に関係していたのかもしれません。アウシュヴィッツ博物館のピーパーの研究成果の発表は、確かに民主化を待たねばなりませんでした。

しかし、それとガス室や絶滅収容所の捏造と、何の関係があるのでしょうか? ソ連の400万人説は確かに杜撰なものでしかありませんでした。しかし、例えば1961年にはすでにヒルバーグは独自にアウシュヴィッツのユダヤ人犠牲者数の推計値を100万人としていたのです。あるいはそれよりも前にジェラルド・ライトリンガーは75万人(80〜90万人だったという話もありますが、正確な値は未確認)としていたそうです。ライトリンガーは反ユダヤ主義を意識して可能な限り少なく見積もったそうです。あるいは、ルドルフ・ヘスは1946年のニュルンベルク裁判所での勾留中に、最大で150万人と見積もっていました。これらのことから言えるのは、単に400万人説がせいぜい出鱈目な数字でしかなかった、というだけであって、よりアウシュヴィッツの犠牲者数に関するある程度正確な値はピーパーよりずっと前から存在していた、ということです。

西岡の論理が一体どうなっているのかさっぱり理解できません。


「アウシュヴィッツの第一発見者は「カチンの森」の犯人のソ連」について

なるほど、あいつの言ってたことはこんなところにオリジナルがあったのか、と今更ながらに知りました。あいつ、とはX(旧Twitter)上のあるホロコースト否定派ですけどね。

ソ連は戦後永い間、自分達がこの大量殺戮を犯したことを認めず、この事件を「ドイツの犯行だ」と言い続けたのです。これが、ドイツによる犯行ではなく、ソ連による犯行だったことは、ゴルバチョフ時代になってソ連自身が認めたわけですが、この同じソ連が、アウシュヴィッツやマイダネックにおける、いわば「第一発見者」であったことに注目して頂きたいのです。

西岡本

ソ連がカチンの森事件で嘘ついてたから、アウシュヴィッツやその他の絶滅収容所などもソ連の捏造だ!と主張しているのです。

カチンの森事件の詳細については、日本語Wikipedia(2024年1月現在)で良いんじゃないかと思います。

しかし、日本だって大概嘘ついてたことは、「大本営発表」というよく使われる言葉でわかる通りです。西岡は、アメリカが嘘ついてたことを「油まみれの水鳥」で述べています。嘘つかなかった国があるのかどうか知りませんけれど、嘘ついたから信用できない、のでは誰一人信用できなくなると思います。嘘つかない人なんていないと思いますし。西岡本発表の後、湾岸戦争時よりももっと酷い嘘がイラク戦争で発覚したことはよく知られています。大量破壊兵器などなかったわけです。

しかし、この馬鹿馬鹿しい論理をもう少し掘り下げて考えてみると、カチンの森事件については嘘をつく理由が明確であったことがわかります。単純に、カチンの森事件はソ連自らが犯した犯罪だからです。もし仮に、ソ連がホロコーストの真犯人だったとしたら、ソ連は自分たちはやってないと、同様に嘘をついたでしょう。ところが、西岡説では、ホロコースト(ガス室・絶滅収容所)はなかったのです。犯罪の事実がないのに何故捏造までしてドイツを大犯罪者に仕立て上げる必要があるのでしょう? 理由を想定できないわけではありませんが、かなり無理筋の理屈にしかなりません。ソ連はユダヤ人と結託しており、ユダヤ人のイスラエル建国に協力するつもりで云々、など。

陰謀論者に言わせれば、「お前は想像力が足りない」と言われそうですけれど、如何なる想像でもそりゃ可能でしょうが、それらの単なる疑いによる想像説に何の大した根拠もないことは明らかです。そもそも正規の大犯罪を捏造しようとして、ヒトラーの命令書の一つも捏造してないし、捏造疑惑がかけられているのは粗末なガス室もどきばかりだし、あるいはガス室殺人のことすら一切書いていないガス検知器のトプフ社の手紙なんつー、かなり複雑な書式の手紙をわざわざ極めて精度高く捏造するという意味不明さに至っては理解困難です。フランケ・グリクシュの再定住報告書はソ連じゃなく、アメリカが捏造疑惑の対象だし、ダッハウのガス室もだし、ヘスはイギリス軍の嘘の自白を強要、そして何千人だか何万人だかの証言者は全員嘘つき……と、その捏造論理の実態はめちゃくちゃです。

こんな馬鹿馬鹿しい否定論を信じる人がいるのですから、人間ってある意味すごいなーと感心する次第です(笑)


「「証言」だけで「ガス室」は証明されるか?」について

プレサック本すら読まない人のこんな出鱈目など批判の価値すらありません。それが嘘であることは以下で明らかです。

ではまた次回。今回は36,000字を超える長さとなってしまいました。お疲れ様でした。まだあと少し続きますが。

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