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明治人に見るリーダーシップ論 vol.2 ~人物をかたどる評判の功罪について

大規模な感染症や欧州における危機に際し、世界各国の政治的リーダーのみならず、国を問わない民間人までもが、政策や発信を通して時局の打開を試みています。決して対岸の火事ではないこの世界史に残る大事件を前に、求められる手段を今一度、過去から学びなおしたいと感じています。今回も、不確実性に対処するための方法論としてのリーダーシップについて、明治人の振る舞いから考察したいと思います。

早速、本題に入る前に、前回同様、前提については次の通りです。

・リーダーシップとは、「不確実性に対処するための方法論」としています。
・リーダーシップは、不確実性下の課題の設定と、課題の推進の二つの視点で考えています。
・さらに明治人のいくつかの局面からこのリーダーシップについて考察しています。

では本題です。今回取り上げる明治人は、大村益次郎です。ご存知の方もいれば、そうではない方も多いと思います。旧名は村田蔵六と言い、元町医者でありながら、明治軍隊の総司令官になった人です。

まず、評判から見てみますと、変人や奇人のように思われていた方のようです。例えば、「村田蔵六の変態」という評があります。この変態というのは、「気違い」の意味合いが近いと思いますが、こう評したのは福澤諭吉です。彼の自伝である『福翁自伝』にある一節のタイトルになっています。福澤は、師匠である緒方洪庵の葬式の際に大村と邂逅します。そこで福澤は、長州藩が下関で諸外国への攻撃を行ったことについて大村と議論をしています。開明派の福澤からすれば、緒方洪庵の門人として蘭学を学んだにもかかわらず攘夷という蛮行を認めるなんて、変なやつだ、と思ったようです。このエピソードが後の福澤の自伝の中で変態として語られているわけです。

他にもあります。夏に大村の家に薬を買いに来た患者が「暑いですね」と大村に伝えたところ、「夏は暑いのが当たり前です」と言ったり、宇和島藩から依頼を受け、大村が造った蒸気船が動いたことに驚愕した家老に対し「動くように造ったのだから、動くのは当たり前」と言ったりしたようです。ですから、一般的に考えれば、感受性のない変な人、というのが評判なのだろう、と思います。

他方、彼の振る舞いに目を向けてみますと、元町医者でありながら、その突出した合理的な思考を活かして、軍事的天才として頭角を現します。事実、近代日本陸軍の祖として知られるのがこの村田蔵六こと大村益次郎です。彼の功績は、九段下にある神社に堂々と飾られていることからもうかがい知ることができます。(ちなみに彼が向いている方角は、戦争を起こすと想定した鹿児島をにらんでいるといわれています)

大村益次郎の銅像: 筆者撮影

では、この大村益次郎がどのような不確実性に直面し、またどのような課題設定を行って、また、どのように課題を推進したのか。恣意的に事例を取り上げるとすれば、二つの事例があると思います。一つは第二次長州征討であり、もう一つは彰義隊の鎮圧作戦です。この事例を説明するためにも、当時の長州藩の直面していた不確実性についてまずは述べたいと思います。

1.4ヵ国艦隊による報復攻撃と第二次長州征討という不確実性

幕末というのは、保守と革新が入り乱れたような巨大なうねりのような時代にあって、その中心にあったのが長州藩でした。1863年の政変によって京都から下野した長州藩は、藩の名誉を復興させようと躍起になっていました。

当時の長州藩の原動力の一つには尊王攘夷という思想がありました。しかもかなり熱狂的です。そのためしばしば当時の人達からは危険な集団と見られていたようで、京都を中心に長州藩は新選組などにより取り締まられていました。1864年7月に長州藩による朝廷との交渉がむなしい結果になったことを受け、長州藩は強硬手段をとります。御所を占拠しようと試みるのです。

しかし会津藩に加え、薩摩藩が加勢して長州藩を猛攻撃したことにより、長州藩は再び敗走することになりました。この戦いは禁門の変と言われています。

ニューヨーク国立図書館の「NYPL Digital Collections」

他方、長州藩の熱狂ぶりは国内だけにとどまりません。1863年5月には攘夷を決行し、下関を通る外国船に向かって、一方的に大砲を発射します。翌年、これに怒った4ヵ国(米国、英国、仏国、蘭国)が、圧倒的な軍事力をもって翌年、下関への砲撃を行います。通称、馬関戦争です。この戦いでは、諸外国の圧倒的な攻撃力を前に、長州藩はほとんど何もできないまま停戦協定を結び、多額の賠償金を支払うことになります(実際には幕府に支払わせている)。

ですが、これだけにとどまりません。今度は、禁門の変の代償として、幕府が長州攻めを行います。一度目の長州征討では、長州藩の家老の切腹により乗り切ることができましたが、1866年に幕府は二度目の長州征討を行います。この時期の長州藩は、いわば内憂外患であり、普通に考えてみても絶体絶命の状態です。このような不確実性下において当時の長州藩で指導的な立場であった桂小五郎が、指揮官の一人としてアサインしたのがこの大村益次郎です。

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2.第二次長州征討の課題設定と課題推進

大村益次郎は、もともと町医者でしたが、漢学や蘭学にも精通しています。緒方洪庵の適塾では塾頭を務めていて、かなり優秀だったそうです。さらに蘭学に精通していた経験から、兵学にも長けており、西洋の兵述書を翻訳したり、よりわかりやすくするため、実践的なわかりやすいテキストを自分で作成したりしていたようです。しかもそのテキストは、無駄がなく的確だったと言われています。

彼の最も優れた能力の一つは、合理性だと言われています。つまり、どのくらいの重さの大砲を、どの方角で、どのくらいの力で飛ばすと、どのくらいのスピードが出て、どの程度の兵を死傷させることができるかなどの、物理法則を活かした計算をいとも簡単に算出できた人だったと言われています。桂からアサインされた大村は、この能力を活かして、作戦計画の立案から、その実行計画としての組織化まで、どしどしと立案します。

第二次長州征討の前年より、幕府が四つの方向から現在の長州藩に攻めてくることが推察されたので、大村は、高杉晋作らと共にこれを迎え撃つための軍事作戦を立案していました。すなわち、国民皆兵の基礎となる身分によらない町民、農民を含めた軍隊の組織化です。彼は桂小五郎に依頼をして、兵士の募集を行います。

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さらに戦をするためにも武器をそろえる必要があります。そこで当時の最新式のライフル銃であるミニエー銃などの調達を木戸に依頼し、密約を結んでいた薩摩藩を通して海外から買いつけることに成功します。ここで活躍したのが薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀であり、土佐藩の坂本龍馬であると言われています。他方、もともと町民や農民あがりの兵士が集まっても、手に持つものがそろばんや鍬では幕府と戦うことはできませんので、これを銃へと替えさせ、そのうえで基本的な軍事訓練を徹底して行います。 つまりは、どの程度の戦争が予想され、そのためにどのくらいの銃と弾薬が必要となり、いつまでに用意し、そして兵力をどこに展開し、どのようにして戦うのかなど、おそらくこうした戦略、作戦、戦術計画などの戦闘指揮全般において大村が関与していたと思われます。

1866年6月に戦闘が開始されます。幕府軍およそ15万人に対し、長州軍、約5000人で迎え撃ったと言われます。そして4方面のうち石州口の指揮にあたった大村はことごとく幕府軍を駆逐します。兵力3倍の法則というのが、伝統的な兵法の考え方であるそうですが、兵と武器とその訓練、および作戦計画をもって、結果的に約30倍の幕府軍に壊滅的な打撃をあたえ、撤退させることに成功します。

大村は、このように合理的な思考による課題設定を行いました。そしてまた桂小五郎の全面協力の下で組織集団を動かし、課題をどしどし推進していきました。その意味で、この局面における大村益次郎のリーダーシップを見てとることができると思います。

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3.彰義隊鎮圧作戦での課題設定と課題推進

1867年12月には王政復古の大号令が実現されます。平和的な政権交代を望んでいた坂本龍馬はこの年の11月に暗殺されており、半ば日本人同士の戦いを止めることができないまま、戊辰戦争へと発展します。大村は、ここでも頭角を現します。

大村は、京都から江戸に向けて北上する軍に随行していました。1868年4月に西郷と勝海舟による江戸の無血開城が実現できたものの、当時の江戸は、彰義隊により無秩序な状態であったと言われています。この彰義隊は、思想のないテロリスト集団と見られていた節があり、江戸市中での略奪行為や殺傷事件などを起こしていたようです。

大村は、この事態の改善を進言します。そして大村は、市中の実際的な警察権の拝命を受け、この彰義隊の鎮圧に向けた作戦計画の立案に乗り出します。彰義隊の人数は、約3000人から4000人。長期間にわたって大量の死傷者を出してしまう大きな戦争になると思われていましたが、大村は、この作戦指揮にあたり、わずか一日間で戦を終えてしまいます。これが上野戦争です。

この鎮圧で大村が考えていたのは、いかに味方の死傷者を出さずに効率的に目的を達成できるか、だと思われます。彼のアイデアは秀逸です。まず彰義隊が一枚岩ではないことを知り、戦線離脱者を増やすことを計画します。つまり、政府側の総攻撃の日時をあえて相手側に立て札で開示することで、思想や信念のない一部の彰義隊の兵士を減らす作戦を行います。これにより彰義隊を含む抵抗勢力は、三分の一程度にまで減少したそうです。

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さらに、相手方の武器が旧式であることから、武器が正常に作動しないように雨の日を戦闘開始日として選んだようです。この雨の日というのは、大村が統計的な分析を行ったうえで、計画的に戦闘日に指定したとも言われています。

彰義隊が敗走できるルートを作っていた点も優れていると思います。つまり、窮鼠猫を噛むという言葉ありますが、追い詰められた兵は、死に物狂いで攻撃に転じることから、あえて逃げ道をつくり、兵を追い詰めたうえで逃げ道から逃走させる方略を考えていました。

他にも大村は、最も強い薩摩兵を、最も熾烈な場所に配置して戦闘をさせたり、当時の本郷(現在の東京大学付近)から寛永寺に向けて、佐賀藩しか持っていなかったアームストロング砲で砲撃させたり、長州藩兵に会津藩の旗を持たせて寛永寺に紛れ込ませる、いわゆるスパイ工作を行わせたりして、さまざまな軍事作戦を展開します。こうした巧みな軍事作戦の結果、政府軍は、彰義隊攻略をわずか一日で実現するに至ります。

後に政府で参議となる肥前佐賀藩の江藤新平は、大村益次郎のことを次のように述べます。

「…、西郷の胆力、大村益次郎の戦略、老練、感心に耐へ難く御座候」。
この戦いを通して、それまで有名ではなかった大村益次郎の名前が一気に世間に知られるようになりました。そして大村は、この実績が認められ、新政府軍の総司令官のポストを任命されます。

以上のように大村は、どうなるかわからない事態においても独自の作戦計画の課題設定を行い、薩摩、長州、肥前の兵を動かして課題の推進したことから、リーダーシップを発揮したと言えると思います。

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4.大村益次郎の評判が及ぼした最期

しかしながら、こうした実績の裏ではよからぬ評判がありました。というのも、彰義隊攻略の作戦会議の場で、誇り高い薩摩の武士に対して、「あんたは戦がわかっていない」と言い放ったり、薩摩武士に彰義隊の熾烈な戦闘である黒門の攻撃を命じたときには、西郷から「大村さんは、薩摩に死ねというのですか」と聞かれ「はい、そうです」と返答したりした逸話があります。この意味においても、目的に関わるうえで合理的な大村は必要不可欠ですが、一方で、相手の感情を害するような無神経だと受け取られる側面が大村には多分にあったようです。

事実、大村は、1869年5月に京都で襲撃を受け、その傷が原因で亡くなります。この暗殺を示唆したのは、「あんたは戦がわかっていない」と大村から指摘を受けた薩摩武士の海江田信義と言われています。海江田は、当時の大村の発言を忘れなかったことに加え、大村が昇進していくことをかなり妬んでいたと言われています。

ところで、大村益次郎の実質的な後輩にあたり、仲が悪かったとされる福澤諭吉は、『学問のすゝめ』の中で、「他人に難癖をつけるのは、誹謗」としたうえで、何が解なのか、真理がわからない状態においては「他人を誹謗するものに対して、ただちに人格的な問題があるように言ってはならない」、他方、「完全に欠点一色であり、どんな場面でもどんな方向性でも、欠点中の欠点ともいえる」のは、「怨望」であると指摘しています。「怨望」とは、すなわち妬みや恨みのようなものです。

つまり、この文脈だけを切り取って考えてみると、大村とは仲の悪かった福澤ですが、大村益次郎を弁護し、他方、怒りや妬みなどの「怨望」を抱えた海江田側に問題点があると指摘しているようにも思えます。もちろん、当人にそのような意図があったという確証はありませんが、海江田の大村への怒りや、功労に対する妬みは、個人的な感情にとどまらず、あらぬことを周囲に吹聴することにまで至り、やがて多くの反大村派を生み出した、と司馬氏も指摘しています。

福澤は、この怨望を防ぐための良質な方法とは、窮にならない状態を作ることである、としています。窮とは、情報が閉塞的な状態を意味します。つまり、情報が閉塞的にならないように、言論を自由にすることが必要であり、二人ですっきりするまで話をさせればよい、と指摘しています。そしてこれができないと、怨望が原因で、人の健全な心の働きを阻害し、暗殺などの大悪事が起こる、と言います。歴史にIFは禁物、とはよく言われますが、もし仮に、大村と海江田が腹を割って話す機会があれば、このような惨事を招くことにはならず、よりよい近代国家づくりがもっと迅速に実現できたかもしれません。怨望を伴う評判は、しばしば感染症のような影響力があり、いわば魔力なのだと思います。昨今の現代のドラマに限らず、過去の歴史書において組織や人間関係が描かれる作品の中には、この怨望が共通して潜んでいるようにも見ることができます。

以上、幕末明治の黎明期でリーダーシップを発揮した大村益次郎について述べてきました。恣意的に取り上げた、象徴的な事例にすぎませんが、大村は、直面した不確実性に対して、独自の課題設定を行い、また人や集団を動かして課題を推進したリーダーシップを発揮した人物であったと思います。
最後に、この明治人に見られる、この不確実性に向き合う凝集されたエネルギーの源泉とはいったい何だったのでしょうか。冒頭、福澤諭吉が冷笑した村田蔵六(大村益次郎)の奇行エピソードについて触れましたが、一方で、この言説を受け、司馬氏は書籍『花神』において、「開明主義は、国家や社会を一新するだけのエネルギーはない」と述べたうえで、幕末期において粉々に砕け散った攘夷論の影響力について次のように語ります。
 
「攘夷が思想というよりエネルギーであればこそ、この時期以後、激動期の歴史の上でさまざまな魔法を生んでゆくのである」。
 
多様性が求められる現代において、あえて再解釈をするとすれば、偏った理屈ではない、異なる重要な何かが必要であることを示唆しているように思われます。

ニューヨーク国立図書館の「NYPL Digital Collections」

出典・参考文献:
J・Pコッター 『リーダーシップ論』 ハーバードビジネスレビュー 2012
稲葉 稔 『大村益次郎 軍事の天才といわれた男』 PHP研究所 2019
司馬 遼太郎 『花神』 上・中・下 新潮文庫 1976
福澤 諭吉 『福翁自伝』 慶應義塾大学出版会 2013
福澤 諭吉(著)、齋藤 孝(翻訳) 『学問のすすめ 現代語訳』 ちくま新書 2009
注)文章の構成上、現代人には敬称をつけ、明治の先達は敬称なしとする。

■執筆者プロフィール

システムエンジニアリング学修士
MSCにて営業部門に所属、主に企画業務に従事
鳩居庵
【ライフワーク】
西洋のアプローチを用いて東洋の歴史や考え方を考察するための方法論について研究中
【最近の関心事】
・世阿弥の『風姿花伝』にみる競争戦略について
・『日本永代蔵』にでてくる三井高利の戦略人事について
・偶然性と創発性について
【日々研鑽】
・木を見て、森も見る
・多様性、集合知、創発性
・まことに日々に新たに、日々日々に新たにして、また日々に新たなり

会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント

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