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そのとき教師は、自分自身こそがまったくの無知であったことに気づくだろう。

中学と高校で英語を教えることになった。

まだ欠員のピンチヒッターに過ぎないが、教師の経験を積む第一歩としてはむしろちょうどいい。

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大学では「教職課程」というコースを受けた。そこで教員免許を取る。

しかし実際のところ、ものを教えるためのコツとか、そのための実践を積むことはほぼない。

なぜなら、先輩や上司もまた教育のテクニックなど学んでいないからだ。

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じゃあどうやって教師は教える仕事をしているかというと、先に経験した人がそこで身につけたことを後の者にやらせることでスタイルを確立する。

ようするに、経験とそこから得られた勘を引き継いでるだけなのだ。

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そこには弱点がある。

それは、教師がかつて経験したのと同じような学習法を生徒に教えてしまうことだ。

きっと、「こんな内容を教えなさい」という指示がでたとき、自分の経験をもとに教育の道筋を立てるのだろう。

とくに、ハードなトレーニングによって学位やキャリアを得た教師は、その経験から、同じようにハードな方法を生徒に教えやすい。

筋トレなら、無茶なフォームで体がいたむから、それが通用しないならすぐにそうとわかる。しかし勉強の場合は.......

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ほんとうに大切なのは、生徒を観察することだ。

彼らの心や頭のなかを完全に見透かす日などやってこない。でも、彼らがなにを求めているのかなら、あるていどわかるときが来る。

そのとき教師は、自分自身こそがまったくの無知であったことに気づくだろう。

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私はたまたま「メノン」「ソクラテスの弁明」という古い本を読んでいたので、教えるとはどういうことか、わからないことがわかるようになる過程はどのようなものか、おぼろげながら見えていた。

ふたつともソクラテスについて書かれた本だ。

これも偶然だが、実はいま私を雇ってくれた学校の校長とこのソクラテスの話をしたら、デルフォイの神殿の話をしてくれた。ソクラテスが啓示をうけた神殿である。

その神殿の柱には「汝自身を知れ」と書いてあるそうだ。


私もいつかそこへ行ってみたい。ギリシャにあるらしい。