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実在しない理想の顔をもとめて美容整形を繰り返していいものだろうか

他人と話す場面が多くなってきた。私にとって、それはとっても嬉しいことだ。私は、人と話して、そして心から笑う瞬間がなにより幸せだからだ。

今は複数の学校で英語の授業をしている。生徒とも話すし、とうぜん上司や同僚とも話す。プライベートの時間には、スケボーパークでいろんな人と話す。


そのとき、「正しさ」をどれくらい追求するのがいいのかな?と考えるようになった。

たとえば授業でいうなら、いちおう台本のようなものはある。けど、それと完全に同じ順序で話すのはまずい。じっさい、まじめな先生がほんとうに台本通り仕事して、生徒が4割くらいそこの授業を辞めてしまったそうだ。

今、私はそのクラスを担当している。今はみんな楽しんでくれているが、台本にはあまり沿わないよう話している。


プライベートでいうと、スケボーパークにおけるマナーが難しかった。私は初心者だし、こう飛んだり回転したりみたいな技をやらない。なんとなくゴロゴロと滑っていたら、「ほかの人の邪魔になるから」と注意された。

あとで同じパークを知るプロスケーターの子が、アドバイスしてくれた。「あそこのパークには、いちおう順路(コース)がある。それは地元の人たちによる暗黙の了解みたいなものだから、知らなくてもしょうがない」とのことだった。

ちなみに、同じパークでも曜日や時間帯によって、そのコースに忠実な人たちが集まっていることもあれば、それぞれが好きな場所で自由に滑っていることもある。

ということは、やっぱり公式のコースは存在しない。というか、そもそもただの公園なのだ。


私の上司が、授業のやり方を録画したり見学したりして、アドバイスや注意をくれた。これから改めてコメントが来るらしい。

私は今回の学校については、台本以外はこれといった指示を受けなかった。「べつの先生の授業を見学させてください」と言ったが、拒否された。上司はこうも教えてくれた。「日本人の先生たちは台本通りに、そのまま授業する人が多いんですよ。外国人の先生たちは工夫されてますね。その中間くらいがちょうどいいと思うんですけど・・・」

私はいまだに、だれのどの正しさにたいして忠実であればいいのか、わからないでいる。

実在しない理想の顔をもとめて美容整形を繰り返していいものだろうか。

もちろんこれは例え話だ。