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秋山真之と名参謀の資質

今回は、江田島や呉の記事でふれた明治時代の海軍参謀(注1) 秋山真之についてご紹介したいと思います。
 
かつて、東郷平八郎から「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と称賛された秋山真之は、司馬遼太郎の歴史小説「坂の上の雲」(1972年)で主人公の一人として描かれたことを機に、一躍有名になりました。
 
(注1) 参謀とは、指揮官の膝元で作戦を練り、適切な助言を行う将校で、いわば軍におけるブレインである

生い立ち
1868年、真之は松山の下級藩士の5男として生まれ、幼少期は、かなり腕白なガキ大将だったようです。

1883年、親友の正岡子規が上京すると、真之も旧制中学(現在の高校)を中退して上京します。翌1884年、真之は子規と共に大学予備門(注2) に入学しました。
 
(注2) 帝国大学の予備教育機関。同級生には夏目漱石などが居た
 
帝国海軍へ
予備門では帝大進学を目指していましたが、学費を兄・好古(よしふる)に頼っていたことに加え、東京で文明開化に接したことで、やがて海(外)を志向するようになります。
  
そして、文学を志す子規とは道を異にし、1886年に海軍兵学校の17期生として入校しました。
 
江田島と旧海軍兵学校」でご紹介のとおり、当時の海軍兵学校は築地にありましたが、1888年に江田島移転となり、真之は兵学校の後半を江田島で過ごしています。

NHKドラマ「坂の上の雲」より
注:当時は未だ赤レンガ校舎はなかった

海軍野球の創始者になる
兵学校時代、真之は海軍初の野球チームを結成します。そもそも、予備門では子規と共に野球を楽しんでいたこともあり、兵学校では真之が米国のルールブックを翻訳し、それを他の生徒らに教えていたようです。
 
厳島合戦を熱心に研究
また、卒業前には厳島を訪れ、海の桶狭間とも呼ばれた1555年の厳島合戦を熱心に研究しました。
 
【参考】 厳島合戦について

毛利元就と陶晴賢の戦い。陶軍2万に対し、毛利軍4千という劣勢にも関わらず毛利軍が勝利(日本三大奇襲戦のひとつ)。
山陰の小京都・津和野」でも紹介した陶晴賢は、当主・大内義隆を自害に追い込み(大寧寺の変)、大内義長を傀儡として実権を握った人物。
劣勢を覆すため、元就は晴賢を宮島におびき寄せる策を仕掛ける。晴賢は、元就が「宮島に上陸されたら敵わない」と側近に漏らしていたことを知り、岩国から海路出陣して宮島に本陣を構えた。
3人の息子と村上水軍を味方につけた元就は、暴風雨の海を乗り切って宮島に上陸し、陶軍の正面と背後から一気に攻め込む。不意を突かれた陶軍は総崩れとなり、やがて晴賢は自害に追い込まれた。

厳島合戦の概要(出展:産経新聞)

このように、真之は若い頃から熱心な戦術家としての頭角を現し、1890年に海軍兵学校を首席で卒業しました。卒業後は少尉候補生として海防艦「比叡」に乗り組み、航海実習に参加します。
 
エルトゥールル号の生存者送還に従事
その頃、潮岬沖で座礁したオスマン帝国の軍艦エルトゥールル号(注3) の生存者送還の任に、急遽、航海実習の途上にあった「比叡」と「金剛」に白羽の矢が立ち、真之ら17期生を乗せたまま、片道約3か月の航海の末に生存者69名をコンスタンチノープル(現・イスタンブール)に送り届けました。
 
(注3)  オスマン帝国の軍艦が日本を訪れたことの背景には、共にロシアの圧力に対峙するという地政学上の共通点があった

日清戦争
1892年、正式に少尉に任官し、海軍士官としての道を歩み始めます。1894年の日清戦争では航海士として巡洋艦筑紫」に乗り組み、偵察などの任務に従事します。
 
日清戦争では、水雷戦(注4) という新しい戦法が実用化されたことを受け、1896年、真之はその新戦術を学ぶために率先して開校したばかりの水雷学校に入校しました。
 
(注4) 水雷とは魚雷や機雷など水中で爆発する兵器の総称で、砲弾だけで戦っていたその頃、水雷を使った戦法は画期的であった
 
マハンとの出会い
その後、海軍の派遣留学生に選ばれた真之は、1897年に戦略・戦術を研究課題として渡米しますが、米海軍大学校への入学は認められませんでした。 
 
そのため、米海軍大学校の校長経験者で、「海上権力史論」(1890年刊行)の著者であるアルフレッド・セイヤー・マハンに師事し、大学校の教材などを利用して海軍の戦略・戦術研究に明け暮れました。

翌1898年、米西戦争におけるサンチャゴ港閉塞作戦(注5) を視察し、この経験が、後の日露戦争における旅順港閉塞作戦にも生かされました。
 
(注5)  当時、スペイン領だったキューバのサンチャゴ港を米海軍が閉塞して、港内に居たスペイン艦隊を壊滅させた作戦
 
帰国後、1902年から海軍大学校で戦術教官として教壇に立つ一方で、日露戦を想定した机上研究にも熱心に取り組みました。
 
戦艦「三笠」に乗り組む
そして "機は熟した" となる訳ですが、1904年、朝鮮半島をめぐり日露戦争が勃発します。真之は戦艦「三笠」乗組となり、連合艦隊司令長官・東郷平八郎の膝元で作戦参謀に抜擢されます。

記念艦「三笠」
(Photo by ISSA)

本日天気晴朗ナレドモ浪高シ
この文章は、いよいよバルチック艦隊との決戦に向かう時に、真之が起案した大本営宛の電報です。
 
「本日は天気が良いので、連合艦隊の出撃は可能であるものの、波が高くて小型艦や水雷艇の参戦は難しいので、作戦は主力艦のみで行う」
 
この内容を、たったの20文字で説明していることから、情勢や方針を端的に伝えた名文として高く評価されています(当時はモールス信号で打電していたため、文章は短いほど良いとされていた)。
 
マストに「Z旗」が翻る
下図は、記念艦「三笠」の甲板に掲示されているZ旗の説明文です。細部は記載のとおりですが、「Z」の一文字だけで、国の命運を賭けた背水の陣であることを各員に分からしめたという点で、真之の短文電報と同じセンスの良さがうかがわれます。

記念艦「三笠」に掲示されているZ旗の説明文
(Photo by ISSA)

そして、真之の戦術研究が実を結ぶ
決戦に際して、連合艦隊は、予め練り上げられた丁字戦法(ていじせんぽう)を実行に移しました。会敵後、反航ですれ違うように見せかけて、途中から敵の針路を遮るように敵前で大回頭(いわゆる「東郷ターン」)を行ったのです。
 
下図のように、丁字戦法では多数の僚艦が前後の主砲をすべて使える一方、敵艦は前部の主砲しか使えないというメリットが生まれます(反面、敵に腹を見せることによって被弾し易くなるデメリットもある)。
 
ただ、前哨戦となった黄海海戦では、丁字戦法を仕掛けたものの、ロシア艦隊を取り逃がして(注6) しまった反省から、「敵を十分に引き付けてから転針する」ように作戦が手直しされていました。
 
(注6) この頃の戦艦は、主砲の射程は僅か12キロメートル、速力は18ノット程度で、会敵しても取り逃がす可能性は十分にあった

丁字戦法のイメージ
(Created by ISSA)

つまり「東郷ターン」とは、いわば「改良型・丁字戦法」であり、結果、敵を取り逃がすことなく、前側の敵艦から順次、集中砲火を浴びせ、後続の敵艦を漸減していく戦法が見事に功を奏したわけです。
 
そして、2日間に及んだ日本海海戦は、史上まれにみる日本側の圧勝で終わり、世界中を驚嘆させたのでした。
 
この勝利は、決して大砲の性能や兵力の差ではなく、日本海軍の優れた戦術によるものでした。
 
厳島合戦の自主研究、水雷という新戦術の学び、マハンに師事して得た知識及びサンチャゴ港閉塞作戦の教訓等、いわば真之流・戦術研究の集大成が結実したものだったのです。
 
なお、丁字戦法は、14世紀中頃から真之の故郷、伊予の海を支配した村上水軍からヒントを得たとも言われています。

連合艦隊解散の辞
そして、連合艦隊は解散となるわけですが、その際、東郷平八郎は解散の訓示を行います。次の一文は、その一部を抜粋したものですが、こちらも真之が起案したものです。
 
「・・・武人の一生は連綿不断の戦争にして、時の平戦に由り其の責務に軽重あるの理無し。事有れば武力を発揮し、 事無ければ之を修養し、終始一貫其の本分を尽さんのみ・・・」
 
つまり、「有事・平時に関わらず、終始一貫、自らの本分を尽くすことが武人の本懐である」ことを説いているのですが、この言葉は現代にも通ずるものがあります。
 
その後の歩み
解散後、真之は再び海軍大学校の教官に復職しました。後年は、日露双方の犠牲者を目の当たりにしたことで思い苦しみ、宗教活動にも熱心に関わったそうです。
 
1918年、虫垂炎と腹膜炎を併発して死去。享年49歳という若さでした。
 
真之の故郷・松山を訪ねて
松山市内にある坂の上の雲ミュージアムを訪れました(展示物は撮影禁止でした😅)。

坂の上の雲ミュージアム
(Photo by ISSA)

路面電車が走る城下町は、私の故郷・熊本に似て懐かしく思いました。右は、愛媛のゆるキャラ「みきゃん」です✨

路面電車が走る城下町・松山
(Photo by ISSA)

夜の松山城にて。

松山城と城下の夜景
(Photo by ISSA)

久しぶりに道後温泉にも行きました。

左上:道後温泉       
右上:道後温泉駅      
左下:坊っちゃんカラクリ時計
右下:坊っちゃん列車    
(Photo by ISSA)

定番のグルメなど😋

左上:郷土料理「鯛めし」
右上:道後ハイカラ通り 
左下:みかんジュース  
右下:道後ぷりん    
(Photo by ISSA)

広島・山口方面からは、柳井~松山間を結ぶフェリーが便利です。

防予フェリー
(Photo by ISSA)

海軍通の間では知られていますが、このフェリーは、戦時中、柱島の南にあった艦隊泊地の近くを通ります(戦艦「陸奥」は、この近海で爆沈した)。

おわりに ~ 名参謀の資質とは
真之が生きた時代は、まさに日本の命運を決する時代。海外志向の開かれた視野を持ち、文武両道で戦術研究に明け暮れた。そんな真之の生きざまから見えてくる「名参謀の資質」について、私は次のように考えます。
 
① 熱意と探求心
もちろん、戦なんてない方がいいに決まっています。しかし、万一、そのような事態になったとき、如何なる戦術・戦法をもってこの国を守るのか。
 
こういう話は、周囲の理解や支援も得難いものですが、熱意をもって常日頃から考えに考える。そのような強い探求心を持つ者が、名参謀と呼ぶに相応しいと思います。
 
② 言葉のセンス
意外かもしれませんが、およそ大勢の人を抱える組織の上に立つ者には、等しくある種の文才が必要になります。
 
特に、一刻を争う戦場では、真之の短文電報やZ旗のように要点を手短に伝え合い、或いは各員の琴線に触れる言葉やシンボルで士気を鼓舞する能力が、時として勝敗を決することもあるのです。
 
③ ブレイクスルーの思考
真之は、指揮官たる者を次のように戒めています。

海軍とはこう、艦隊とはこう、作戦とはこう
という固定概念がついている
恐ろしいのは固定概念そのものではなく
固定概念がついていることも知らず
平気で司令室や艦長室の
やわらかいイスに座り込んでいることだ

つまり、その指揮官を支える参謀こそ、既成概念に安堵することなく、新しい情報を取り入れながら改良を重ね、指揮官を適切な方向に導く能力が、ことさら必要になるというわけです。
 
常に最善の戦術を追求し、文才に長け、柔軟な発想ができる参謀が居て、はじめて指揮官を有能であらしめることができるのだと思います。
 
結 言
東郷平八郎が如何に優れた指揮官でも、その膝元に秋山真之のように頭脳明晰な参謀が居なかったら、どうなっていたでしょうか。ひょっとしたら、今もなお、日本やアジアのの国々は、欧米やロシアによる植民地政策の下で辛酸を嘗めていたかもしれません。
 
他方で、降伏旗を揚げたロシア艦隊への追撃を止めない東郷平八郎に「敵は降伏しました、砲撃をやめましょう、武士の情けです」と進言したという話もあります。真之は、決して冷酷非情だったわけではなく、国の命運という重責を担う一方で、個人として当たり前の人情ゆえに苦悩もした。
 
こうした、祖国防衛のために侵略者を打ち破る戦術を徹底追求する厳しさと、人として当たり前の他者を思い遣る優しさ。この相反する資質を兼ね備えた人物こそ、私は真の名参謀なのではないかと思います🍀