天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶晴賢(隆房)率いる大内軍と連係し尼子軍を撃退した日。安芸国の国人領主の元就は大内と尼子の間で鞍替えを繰り返した。元就を救った晴賢が後に三大奇襲の一つ厳島合戦で元就に敗れ自害し毛利が飛躍。先のことって本当にわからない。
天文24年(1555)10月1日は厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破った日。日本の三大奇襲戦に挙げられる。大内氏の実権を握る晴賢は暴風雨中の夜襲に遭い自刃。逸話や通説では偽情報や偽装内通など事前の謀略による準備が効果的だったという。劣勢をひっくり返したいなら下準備が重要ということ。
天文10年(1541)1月13日は吉田郡山城に籠る毛利元就が陶隆房(晴賢)率いる大内軍と共に尼子軍を撃退した日。国人領主の元就は大内氏と尼子氏の間で巧みに振る舞うが大内氏へ服属を明確にし尼子詮久(晴久)が攻寄せた。毛利・大内軍との戦いで情勢不利な尼子軍は雪の中撤退し追撃を受けた。
天文24年(1555)10月1日は厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破った日。逸話や通説では大内氏の実権を握った晴賢に元就は偽情報や偽装内通など事前の謀略をしかけた。晴賢は内通を疑った家臣を殺害し大軍が身動きとりづらい宮島におびき出される。暴風雨中から夜明けに奇襲を受け晴賢は自刃。